私は怒りを育む速度が遅い。
だから、咄嗟に怒りを顕にできる人のことがずっと羨ましかった。それは自分の感性を深く信頼していないとできようもないことだ。歳を重ねるごと、ゆるやかに殺めるように、私が手放してきた機能だった。

思考を失える瞬間なんて、眠りに落ちている間くらいしかない

他人の目を介した私の評価というと至って月並みで、おだやかな人ですねとか、まじめな人ですねとか、いつもフラットだよねとか、そんな無難なものが多い。ことの善し悪しは置いておいて、それらが今ひとつすとんと胸に落ちてこないのは、私自身が自分のことをおだやかでまじめでフラットな人間だと評したことなど一度もないからである。

私の頭の中は、いつ何時も無数の言葉で埋め尽くされている。考え事をするのは最早癖のようなもので、私が思考を失える瞬間なんて眠りに落ちている間くらいしかない。
歯磨きをしながら、今日の段取りを洗い出す。
朝ごはんを食べながら、週末のスケジュールを組む。
電車に揺られながら、昨日あの人に言われた言葉の意味を咀嚼する。
忘れようと試みて、好きなものの好きなところを数えてみる。

でも脳裏から剥がれない。咀嚼する。咀嚼する。そこでようやく、やっぱり理不尽だったんじゃない? あれって怒ってもよかったんじゃない?と思い至る頃には、大抵の感情が旬を過ぎてしまう。
いかんせん疲れるし、効率が悪いのだ。

生きていくほどに好きなものが増える。手放せない感情も

私は、自分の感情に対してすこぶる鈍感なのか、あるいは極端に神経質なのだと思う。
人の顔色を伺うことがやめられない。嫌いな人にさえ嫌われるのが怖い。つとめて計画的に着実に積み上げてきた信頼を損なうのが怖い。本当は自分なんて評価に値しない人間だと思っている。だから度々精査する。私の感覚に狂いはないのか。私の判断はふつうなのか。

夕方になれば西に太陽が沈むように、りんごが赤いように、爪が伸びるように、砂糖が甘いように、私は、私は正常ですか。すべて音なき言葉にして確かめないと、アウトプットできない。
子供の頃から、この世でいちばん信用ならない人間はいつだって自分自身だった。長く馴染めずにいた制服を脱げる時が来ても、漠然と苦しかった。大人になったらうまく擬態して生きることを覚えたつもりだったけれど、ちゃんとできているか毎日不安だった。

つよい人が羨ましかった。
エキセントリックに生きていける人が、そんな自分を許せる人が、本当に心の底から羨ましかった。
そして、私は凡人だった。何者にもなれない、中途半端な生きざまだ。

でも、そんな私でも、生きていけばいくほどに好きなものが増える。失いたくない人も、手放せない感情も、よりどころのようなひかりも増えて、それらすべてをやんわり束ねてみたときに、いつのまにか信念みたいなものがかすかに芽吹いているのを感じた。

まだ輪郭もおぼつかないような不確かな違和感を覚えたとき、思いきって言ってみた"それっておかしくないですか"は、当初危惧していたより世界を変えなかったし、次の日からも平穏な日々が続いている。
帰り道、秋めいた薄闇を見上げながら、私は私にしかなれないんだなあ、と思った。

愛想も虚勢もどうしようもない欠落も、全部私。それ以上も以下もない

標準値にもエキセントリックにもなれない中途半端な人間でも、いくつかのものをよすがに騙し騙し今日まで生き抜いてきて、ちいさな世界を積み上げて。結局私は私以外のなんにもなれない。他人の目から見た私も、私が知る私も、愛想も虚勢もどうしようもない欠落も、全部私。それ以上も以下もないんだ。それは前向きな気付きというよりは、悪くはない諦観だった。

知らず知らずのうち、私は私を痛めつけていたんだろう。その方が自分を守れることをどこかで気づいていたんだろう。本当は、自分なんて評価に値しない人間だと思っていて、そうじゃないよって誰かに言ってもらえるのをずっと待っていた。それを私に言えるのは私しかいなかったのに。狡くて、弱くて、優しくなかった。

私は怒りを育む速度が遅い。
今日も言いたいことが言えなかった。
だけど朝ごはんをおいしいって思いながら食べたし、映画を見て感動したし、家族の笑顔を見て安心したりもした。ゆっくりだけど、間違ってても何かを思う。だから咀嚼する。咀嚼する。咀嚼する。

仕方ないから、明日も私は私のまま生きる。その結果がどうなるのか、私がどんな人間だったのかは、死んだ後に神さまにでも聞いてみよう。まあそれでもきっと納得できないんだろうな。どうせ私のことだから。
そして夜眠る前には、だれかの孤独に寄り添うために踊り続けた大好きなグループの曲を聴いて、心に絆創膏を貼ってもらおう。いつも背中をさすってくれて、本当にありがとう。