ある言葉を言われると、その人を信用できなくなった
「私はずっとあなたの味方だよ」
10代の頃、そう言われると、その人のことを信じられなくなった。
人の心なんてことごとく移ろうものだし、わざわざそんな事を口にするなんて映画やドラマの真似をしたいだけに違いない。そうやって味方のフリして笑いながら、敵視しているはずの相手にも同じ笑顔をバラ撒くような人間を知っていたから尚更、私は頑なにその言葉を嫌った。
多感な思春期に握りしめたその物差しはなかなか手放せず、なんなら余計な目盛りが増えていくばかり。心を開いては細かいことで失望するのを何度も繰り返すうち、すっかり人付き合いに疲れてしまった。
友達とか恋人とか、もう知らない。でも社会に生きる上で最低限のコミュニケーションは維持していたい。そんな時、ひとり飲んでいたバーでスカウトされ、バーテンダーとして働くことになった。
夜勤で殆どの人と生活時間が被らなくなるから、嫌味なく関係を疎遠にできる。接客があるから会話の仕方を忘れることも無い。そんなやや不純な動機で就いた職だった。
ある日の営業中、常連さんが訊いてきた。
「目と耳、どっちを信じる?」
私は面食らった。どんな話の流れ? と思ったのもあるがそれより、そんなこと考えたことも無かったから。
恵まれたことに生まれつき目も耳も備わっていて、それらから絶え間なく情報が与えられることにも、その情報自体にも、疑問を抱く余地があるとも思っていなかった。
会話の結論がどこに終着したのかは正直覚えていない。ただ私の中で答えが出なくて、何日もその質問を咀嚼した。
視覚、聴覚を失った時に信じられるもの
そもそも目を、耳を信じるってなんだろう。
もし私が今どちらかを失えば、残ったもう一方を信じて生きていくしかない。道、障害物、生活。不安な場面は色々あるけれど、公共のサポートと身体の感覚でなんとかなるように思う(勿論、不便が全く無いだろうとは言えないが)。
じゃあ、視覚か聴覚かの選択を強いられる時とは? それって、人間関係なんじゃないかな。と、当時22歳の私は行き着いた。たぶん、真面目に煮詰め過ぎていると思う。あの常連さんは、もっと物理的距離とか職人技的なことを言っていたのかも。
あの問いの答えは、結局出ていない。強いて言うなら「選べない」という拒否の選択をしたい。
だけど、そこに辿り着くまでの過程で、不思議と私の偏屈な物差しからは目盛りが取り払われていった。
目も耳も、すごく重要な事実を私に手渡している。片方だけ、なんて想像しただけで心許なくて仕方ない。なのに私は、目か耳、どちらかの情報だけで人との関係を切り捨ててしまうような目盛りをたくさん作ってしまったんじゃないだろうか。
あんなことを聞いたから、そんなことをしたから。些細なひとつの気掛かりに惑わされて、稚拙で危うい判断をしているんじゃ……?
そして私はあっさり、物差しを棄てた。代わりに今は、不安定な磁石みたいな指標を持っている。
私の目が見るのをやめた時、
それからもしくは
私の耳が聞くのをやめた時、
隣に立ったその人を信じられるかどうか。
それでも好きになれない人もいる。それは自然なことだと開き直って、万が一のその時に、その人に頼らなくてもいい距離感で付き合っていく。
あぁ、私、やっと10代から抜け出せた。そう思った。
常連さん、ありがとうございます。
あのなんだったのかよく分からない問い掛けのおかげで、私は今、あの頃よりちょっと身軽に生きられています。
そして私自身も、誰かの目や耳を託してもらえるような存在となれていますように。