私には障害がある。摂食障害という、国の難病にも指定されていた病気だ。
私はこの病気のために、適応障害やうつ状態にもなり、これまでに4回、入退院を繰り返している。4回というのは少なく感じるかもしれないが、1回の入院が1か月から3か月にもなることや、発症してから現在4年ほどしかたっていないことを考えると、決して少ないと感じる回数でもないと思う。
障害も含めて「私」と思える一番の理由は、視野を広げてくれたから
私はこの障害のために、様々なものを犠牲にしてきた。誰もが楽しみしていた学校行事、学生生活。最近では日常生活にまで支障をきたし始めた。こんな厄介なお荷物を抱えているが、しかし、私はこの障害も含めて「私」なのだと思っている。
こう思える一番多い理由は、障害が私の視野を広げてくれたことだろう。
例えば、自分自身が障害者になって初めて知った社会福祉サービスは、普通に暮らしていたら縁のない話だと思う。
また、障害者が社会で暮らしていくための支援の手厚さに関する問題も、それまで全く関心がなかった。私が大学で社会学の授業を履修するようになったのも、自分自身について知りたいから、という理由が大きなウエイトを占めている。
今後、不利益を被ることがあっても、胸を張って障害があるという
このような理由から、私にとって障害は自分の宝物であると言える。障害なくして今の私は存在し得ないのである。
数年前に相模原の障害者施設で起こった残虐な悲しい事件を忘れていない人も少なくないだろう。近年、障害者差別禁止法が認知されるようになったとはいえ、まだまだ偏見は根強く残っている。
特に精神障害は「甘え」や「気の持ちよう」と片付けられてしまうという現実もあり、理解を得ることはまだ難しい。それでも私は障害を隠そうとはしない。友人に聞かれれば普通に答えるし、周りに力を借りたいときには事前に自分の状況を説明してお願いしている。自分のたからものは皆に見せて自慢したくなるのと同じように、私も胸を張って堂々と障害を公にしたいのだ。
そして、皆に見せたらしっかりと胸の中にしまっておく。それが、私の場合は目に見えない「摂食障害」という形であるだけなのだ。
障害によって何かを断られたりして不利益を被ったことはまだないが、今後、そういうことがあるかもしれない。それでも私は、胸を張って障害があるというだろう。摂食障害とは、私にとって「私」を構成する大切な要素の一つなのだ。
同情はいらなくて、「強い個性がありますよ」と伝えたいだけ
「若いのにそんな病気になってかわいそうね」といった同情の言葉をかけられることもよくある。
しかし、私にとって同情なんていうものはいらなくて、ただ「私には障害というほかの人よりも強い個性がありますよ」ということを伝えたいだけなのだ。そのような言葉をかけてくれた人は良かれと思って言っているのかもしれないが、かわいそうかどうかは人が決めることではなく、私が決めることだ。そして、当の本人はそんなことは思っておらず、むしろ感謝さえしている。同情の言葉をかける際には注意してもらいたい。
今日も私は堂々と胸を張って障害者として生きていく。
障害とは、私にとって杖のようなものだ。障害に支えられ、共に歩んでいく。
障害とは、私にとってそういうものなのだ。