「うちさ、結構人間観察好きなんだけど、大体、柚希みたいに情が厚くて、私がこれをやれば誰かの役に立つとか、投げ出したら迷惑かかるからそんなことできないとか思ってて、いつも相手のことばかり考えてて自分のこと犠牲にしてる人って、人生うまくいってない人が多い。空回りしてるというかさ。世わたり上手だなあって思う人は逃げ道を準備してるし、自分にとってプラスになることはなんでもやるけど、情では動かない感じがあるかな」

これは、私が彼氏に傷つけられても情で別れられなかったとき、幼なじみの親友から送られてきた言葉だ。

親友は心配そうに様子を伺った。わたしは笑顔を作って言った

この言葉の通り、わたしは情がとても厚く、自分を客観視することが本当にへたくそだ。
何が正しくて何が悪いかよりも、自分がこうしたいと思った気持ちのままに生きてきた。

あれは確か中学3年の時だった。
その親友が不良に絡まれて、タバコを吸わされそうになって怯えていた。
隣で見ていたわたしはその不良に「それ、わたしが吸うから、その子に吸わせるのやめてよ」と、条件を持ちかけたことがある。
不良は楽しそうに「じゃあお前が吸えよ!」とわたしの口にタバコをねじ込んだ。
強い煙にむせかえると 不良は笑って去って行った。
親友は心配そうに様子を伺ってくる。それが申し訳なくてわたしは笑顔を作って言った。
「タバコってめちゃまずいんだね!!1回吸ってみてよかった!もうあんなまずいの二度と吸わないって思えたからいい経験になったわ!」
親友は一瞬悲しそうな顔をしたけど、微笑んで「ありがとう」と言ってくれた。

いつか、自分が自分でいられなくなってしまうのでは?

いつも「こうしたい」が強くなり、気づけば行動している時は決まって、自分ではなく“誰かのため”だったのだ。
一見それは、「素敵だね」と思うかもしれないし、私も自分で自分が好きと言えるように無意識に貫き通してきた部分でもあった。
でも、よく考えてみて?その行動でいつか「自分が自分でいられなくなってしまう」のではないのかな?

“自分を愛せない人は他人も愛せない”と、どこかでよく見かけるこの言葉。
それの正体がようやくわかった気がした。

例えば親友がわたしと同じだったとしたら…?
傷ついても何言われても笑顔で我慢して、愚痴を一切こぼさず 暴言吐かれても、傷つけられても、自分を放ってまで誰かのためにずっと頑張ってる。

「ねえ、なんで。なんでそこまでするのよ。わたしはあなたが苦しんでまで助けてもらうために友達してるわけじゃない。無理に気遣って笑わなくていいし、逃げ出したってよかったよ? なのに、ほんと馬鹿だよ。もっと自分のために、幸せのために行動しなよ」
きっと、こう言うと思う。
つまりわたしは、親友が大切にしてくれてるわたしを大切にできずに、守れずに傷つきっぱなしってことだ。

親友は見えないところで、苗が枯れないようにしてくれていた

わたしは本当に馬鹿だった。
例えるなら、親友と二人で大切に育ててきた苗に、化粧水をふき続けて「芽が出るの楽しみだね!」って笑っているくらい馬鹿だ。
「化粧水じゃだめなんだよ…枯れちゃうよ」
「わたしが買った苗なんだから別にいいでしょ!いつか絶対芽が出るんだから!」
親友が勇気を出して忠告しても、わたしは頑固で無知でどうしようもない。

化粧水は苗にとって喜べるようなもんじゃない。ありがた迷惑だ。
いい加減、もう大人なんだ。
けれどもきっと芽 が出るんだと、信じていた。信じたかった。
親友は、そんな信じ続けるわたしの見えないところで、その苗に透き通った綺麗な水をあげて、枯れないようにしてくれていた。何年も。何十年もだ。
いつか綺麗な花が咲いて、わたしが心から笑えるように。

わたしは自分の問題と、向き合うことをしなかった。
自分は正しいと思い込み、逃げていたのだ。

彼女はずっと、ずっとずっと何年も 10年以上も思いを抱えて、重荷を抱えながらも友達を続けていてくれたことに気づいた日 心の奥が激しく揺さぶられた。

罪悪感で押しつぶされそうになった。
それとすれ違うように、溢れるほどの水がどっと、胸に注がれて気づけば声をあげて涙をこぼしていた。

それから、少しだけ自分を守れるようになった。
親友が好きな私を、わたしも大切にしていきたいと思えた。
すこしだけ、まだほんの少しだけれど、自分の見え方が変わった気がした。

もし今のわたしのまま、あの不良に絡まれる日に戻ったとしたらきっと大好きな親友の手を離れないようにぎゅっと握って、全力疾走で逃げ出しているに違いない。
それが、親友とわたしが笑顔でいられる、わたしの在り方だ。