髪を切りに行った時、美容師に「襟足、女の子らしく少し残しときますね~」と言われた。またか、美容師の優しさが辛い。
私はここで「いや、いいです」なんて言えるメンタルを持っていればいいが、あいにくそんなものは持ち合わせていない。「…はい」こうして自分は、“女の子らしさ”を手放せないでいる。
「女性らしくいない」ことで、誰かが傷つくことないと楽になったが…
中学生の頃、周りの友達はどんどん“女性”になっていった。このままじゃいかんとスカートを穿いてみた。でも、鏡に映る自分を見て「なんか、違う」と思った。
そう、何かが違うのだ。似合わないと言ったらそれまでだが、なんとなく、鏡に映る自分は自分ではない気がした。「もしかしたら、自分はトランスジェンダーなのか……?」そう思い、色々と調べてみた。
でも、「女性でありたくない」とは思っても、「男性になりたい、戻りたい」とは思わなかった。“思えなかった”の方が正しいかもしれない。性転換にはお金もかかるし、とてもリスキーだ。自分には、そこまでできる勇気がなかった。
そんなふらふらしている時、SNSでとあるモデルをみつけた。その人は生物学的には女性だが、見た目はほとんど男性と変わらなかった。「なんだ、別に女性らしくいなくてもいいのか」。
そして、気がついてしまった。「自分が女性らしくいないことで、誰かが傷つくことないじゃん」と。
そんな大発見をして、楽になった一方で、ますますわからなくなった。なぜ、自分は今穿きたくないスカートを穿いて学校に通っているのだろうか? なぜ、当たり前のように“女性らしく”いることを教えられているのだろうか? なぜ、“自分らしく”いることをすすめながら、“女性らしく”いることを強要するのだろうか? 一度気がついてしまった違和感は、なかったことにできない。それが余計にストレスだった。
一人ひとり好きな食べ物が違うように、「好きな自分」も違うのだ
なにも“女性らしく”いることが悪いことではない。理想の自分にむかって努力することは、とても素晴らしいことだ。ただ、好きな食べ物が違うように、好きなアイドルが違うように、一人ひとり“好きな自分”が違うのだ。何も難しいことではない。ただそれだけのことなのだ。
私にとって“女性らしく”いるように説かれるということは、いわば“大して好きでもない野菜の話を延々と聞かされている”状態なのだ。大して好きでもない野菜の話をされたところで、聞く気にはならないし、楽しくもないだろう。だって、こちらは肉が好きなのだから。
でも、ただ文句を垂れ流すだけじゃどうにもならないようだ。周りもそう簡単には変わらない。なので私は思った。「私が〇〇を変えるなら、自分を変えてやろう」と。
変えると言っても、“諦めて女性らしくいよう”というわけではない。今まで私は、スカートを穿きたくないことも、メンズ服が好きなのも、誰にも言わなかった。嫌われたり、引かれたりするのが怖かったから。
当然のことなのだが、思ってるだけじゃ伝わらない。“口に出さなくても察してくれる”だなんて、都合のいい話は存在しないのだ。そんな簡単なことも私は忘れてしまっていた。
私は忘れていたけど、口に出して、行動することの「大切さ」を学んだ
私は友達と服の話をしている時、さりげなく「メンズの方が好きなんだよね」と言ってみた。「へぇー、いいじゃん」と、その友達はすんなりと受け入れた。「なんだよ、全然平気じゃんか」。
「メンズ服が好き、スカートはいや」と、口に出しても案外みんな「へぇー、いいじゃん」程度だった。周りの人たちに恵まれているといったらそうなのかもしれない。「もっと女の子らしいものを持ったらどう?」とすすめられることもあるが、「へぇー、いいじゃん」と言ってくれる人がいるから、聞き流せている。
でも、やっぱり傷つく時は傷つく。自分を否定されたようで、悲しくなる。だから、いまだに人と服を買いに行くのが苦手だ。確実に「へぇー、いいじゃん」と言ってくれる人とじゃないと一緒に買いに行けない。
でも、私は学んだ。口に出して、行動することの大切さを。口に出して、好きな格好していれば、それが嫌な人はそもそも近づいてこない。しかも、“女性らしくない女性”という概念の種をこっそりと植え付けることができる。とてもお得だ。そう考えれば、少し前向きになれる。
なんだか次、髪を切る時は「もっと短くしてください」と言える気がする。