「しっかりしているね。」
「緊張しなさそう。」
「堂々としている。」
「一人で何でもできそう。」
他者から見られている私。
ここでいう他者とは自分以外のすべてを他者として捉える。
「しっかりしているね」というイメージを体現するようになった
これらの言葉は、子どもの頃から今まで一貫として言われている私が他者からどう見られているのかを表す言葉である。
別に悪口でも貶されているわけでもないから、自分の長所でもあり同時に短所でもあると思ってきた。
あまり気にしないようにしていたけれど。
でもいつからだろうか。
私は、しっかりしていなきゃいけない。
強くいなきゃいけない。
という他者からのイメージを体現するようになっていた。
しっかりしていて強くいることが自分自身だと思うようになっていた。
逆にイメージ通りの私じゃなければ、
「私が私じゃなくなってしまうのではないか。」
という不安まで抱くようになった。
周囲のイメージ通りで居続ける日々。私だって悲しさを覚えるのに…
他者からのイメージ通りの私であり続けられればよかったから、特別な努力などはしていない。
ただ、見られている自分であり続けるうちに、【本当の自分】は分からなくなっていった。
「何かあったら頼っていいんだよ」
「大丈夫?何かできることはある?」
と言われると、何をどう頼ったらいいのか分からなくなっていた。
「大丈夫!」と答えるのが当たり前になっていることに気づいたとき、何が大丈夫なのかもわからず発していて、「大丈夫」という一言ですべてがどちらかというと良いように捉えられていることに少し怖さを感じた。
悲しかったこと、悔しかったこと、そういったマイナスな感情で涙することだってある。
だけど、それは全部人に見せるものではないと思ってきた。
会議や発表の場で人前で話すときは、口から心臓飛び出しそうなくらい緊張するし。
手汗かくくらい焦ることもあるし。
恋人に振られたらもう恋愛なんてできないって思うくらい落ち込むし。
このような私のことに対して「イメージにない」ってよく言われるけど、それって褒め言葉なのかな。
強がっている訳でも、気づいて欲しいとかではなくて、私だってあなたと同じような感情をもつということを言いたい。
感じる葛藤。それでも他者から見られている自分でいる方が生きやすい
いつからか、本当の自分が分からなくなっている。
何かに迷ったとき、立ち止まる度にまずは自分でどうするかを考えてしまう。
同時に、誰かに話して相談してみようかなという思考も働き、常に葛藤と向き合う。
したいけどできない葛藤と戦って、結局は自分で解決する方法をみつけてしまう。
誰かに話せたら、もっといい方法が見つかるのかもしれない、もっと気が楽になるのかもしれないと思いつつも、自分自身が他者から見られている自分でいたいと強く思ってしまう。
誰もが【他者からの見られ方】と【本当の自分】との間に心の葛藤があり、日々悩んでいると思う。
それでも、他者から見られている自分でいる方が、この世界では生きやすい気がする。
そんな言い訳かもしれないことを理由にしている。
だから、葛藤と戦いながら、他者から見られている自分で今日も生きている。