おしゃれな服を着て、髪を巻いて、綺麗にメイクして歩く日本の女性たちに驚いたことがある。留学を経て日本に帰国した時だ。
留学はたったの1カ月だけだったけれど、そんな短期間でもそう感じるほど、日本の人々は常に「きちんと」している。

「似合っている」の言葉に安心する日々に疲れて、海外へ行った

海外留学を経験する前の私は、ショーウィンドウにうっすら映る自分と、毎日目を合わせていた。流行りの服や髪形を常にチェックして、外出時は自分の身なりが変ではないか気になって仕方なかったのだ。
「可愛い」「似合っている」と言われれば、嬉しかった。喜びというより安心に近かったかもしれない。

それなのに、流行をどれだけ追ってもゴールがない。人に褒められても満足できない。自分に自信がない。空虚感。

SNSでキラキラ輝いている高校時代の友達。彼女たちに今会ったら私を見てどう思うのだろう。
今、昔の恋人とすれ違ったら、彼は私を見て別れたことを後悔するだろうか。
自分がどんな風に思われたかったのかさえもわからない。

そんな日々に疲れて海外へ行った。今繋がっている関係全てから、一度離れたかった。
キャリーケースに入る数着の服と拙い英語で。
毎日目の前の人に自分の意思を伝えることで必死だった。
自分の過去も、1カ月後の生活も知らない人たちとの生活はとても楽だった。
どんな服を着てようと、どんな髪形だろうと気にならなくなった。

今まで自分が怯えていたものは何だったのだろう。
そもそも、自分をこんな風にさせたものは何なのだろう。

部長だから。それだけで、外したリボンは認められなかった

中学時代、私は規定だった制服のリボンをつけずに登校したことがある。
今思えば、「リボンがダサいから」という理由でしたことではなく、すこし規則から外れたかっただけだ。悪い子たちがしていることを、ほんの少し真似てみたかったのだ。

そんな青くも小さな私の反発は、膨らみきる前にチクりと刺されてすぐに萎んだ。
当時の部活の顧問にすぐ咎められてしまった。それも私だけ。
理由は当時私が部長だったからである。私は「きちんと」しなければいけなかったらしい。

そうして私の小さな個性は芽を出した後に、すぐに摘まれてしまった。

努力より、見た目がその人の評価に直結するなんておかしいよね?

私はこの日から「きちんと」していること。人と外れていないことを無意識の中で、常に意識して生きていたのかもしれない。

日本には、こうした周りと外れてはいけないという考えが根強いと思う。
この小さな島国では、見た目が“その人の評価”に直結するようだ。

わかりやすいのが、就職活動。もちろん、見た目は大切だ。けれど、
スーツは黒。
女性はパンプス。
髪は顔にかからないようにまとめる。

私が咎められた要因の、リボンだってそうだ。
それをつけているから、外しているからといって何が変わるのだろう。
部長としての役職を全うしていたつもりだ。
私のそんな努力ではなく、リボンの有無を咎められたのは今でも少しモヤモヤする。

本当は、自分が好きなものを肯定も否定もされたくない

「留学を機に大きく人生が変わりました。」
そんなフレーズは今まで何度も聞いてきた。
私はどうだったかというと、変わらなかった。

正確には、戻ってしまった。
常に「きちんと」している人々に囲まれて、周りと自分の差を気にしながら生きている。
本当は自分が好きなものを肯定も否定もされたくない。
ここでの生活を変えたなら、自分は何を大切にして生きていくのだろう。

でも私はこの国で、何も気にせず自分の好きな服を着て生きる自信がない。
自分の好きなものを否定されることが怖いのだろう。

ショーウィンドウに映る自分と今日は3回、目があった。