私は、周りの人間に自分を良く見させようとする、癖みたいなものがある。それが原因で、私は他人に頼ることがとても苦手だ。
「助けて」なんて簡単には言えないし、言いたいことがあってもすぐに飲み込んでしまう。頼ることが下手くそで、それが生きづらさのひとつだと自覚はしているのに、旦那に愚痴のひとつさえこぼすのも躊躇ってしまうのだ。
他人から見える私は、私の考える「正しい自分」を振舞っている
他人からは「しっかりしている」「優しい」とよく言われる。まさにそう見えて欲しくて、私は私の考える“正しい自分”を振舞っているのだけど、他人から良く見られようと意識すればするほど、自分の首を締めているような感覚がする。なんだかとても、息苦しいのだ。
私がこのような人間になったのは、両親の影響が大きかったように思う。特に母親の機嫌を損ねないように生きてきた子供時代だったから、様々な場面で自分はどのような立場で、どんな振舞いをすれば良いのか、瞬時に判断出来るようになった。
自分の気持ちなんてお構いなしに、他人から見た自分を想像して、“良い自分”を作り上げていくのだ。このようなことをいうと、きっと「八方美人だ」と言われるだろう。
でも、こうやって振舞っていくことでしか、生きていけない子供時代を過ごしたのでどうしようもなかった。八方美人になることでしか、生きていけない。そんな人間も少なからずいるのだ。
“良い自分”を繕うのに必死で、すごく疲弊する毎日を送っている。良い奥さん、良いお嫁さん、良いお母さん、良い娘……。どれが本当の私なんだろうと、悩むこともある。でも、どれも本当の私なんだと思う。
面倒臭がりで、怒りっぽい。そんな私を見ても好きでいてくれる家族
しかし、何年もたくさんの葛藤をして、最近では何も繕わなくていい、素の自分を少しずつ出せるようにもなってきた。素の私は、実は口が悪いし、面倒臭がりだし、怒りっぽいし、少々荒っぽい。
日記を書けば3日は続くが、1ヶ月は続かないし、口癖は「めんどうくさい」だ。我ながらに結構ひどいものだと思う。それでも本当の自分を出せるのは、どんな私を見せても好きでいてくれる旦那や子供たちがいるからだ。
ある日、日課にしていたストレッチを忘れてしまったときがあった。気が付いたのはもう夜で、以前の私だったら「めんどくさい」と思いながらも、しっかりとストレッチをやっていただろう。ちゃんとした自分を見せるために。
でも、ストレッチを忘れた私に、旦那は「やろうと思ったことがえらい」と言った。その言葉を聞いて、「そっか」と肩から力が抜けた。頑張り過ぎなくても、1日ぐらいサボっちゃっても、自分を良く見させようとしなくても、この人は私のことを責めたり嫌ったりしないんだと思ったら、すごく安心したのだった。
自分の目からは、今の自分はどう見えているのかを意識したほうがいい
他人から見えている自分を想像することは、きっと悪いことじゃない。でも、それで本当の自分を見失ったり、良く見せようとして力が入り過ぎてしまうのも、よくないのではないだろうかと思うようになった。
SNSでも、自分を良く見せようとして話を盛ったり、他人を下げたり、ときには嘘を流してしまう人もいる。それは、本当に自分が望んでやっていることなのだろうか、と考えてみる必要がある。
私たちは、他人の目を気にし過ぎているけれど、それ以上に自分の目を気にしたほうがいいのかもしれない。それに、他人は私たちが思っているほど、私たちのことを見ていない。
自分の目からは、今の自分はどう見えているのか。それは、自分が夢見ているなりたい姿なのか、誇れる姿なのか。嫌な自分になっていないだろうか。
これからも、そんなふうに自分自身を見つめていきたいなと思う。そして、いつかはこの息苦しさを手放して、素の自分を出すことで自身を広い世界に解放してあげたい。