「どうせ、何も変わらない」「自分が悪い」「もっと頑張らないと」。こんな言葉を、今までどれだけ聞いてきたことだろう。そして、どれだけ黙認してきたことだろう。

職場で馬鹿にされた、家族や恋人に不当な扱いを受けた、生活が苦しくなった。このような状況では、現状を受け入れ、自分を責める光景は、よくあることだ。
今、苦しいのは自分が頑張らなかったからだ。頑張ったって何も変わらない。皆しんどい思いをしているから、自分も我慢しなくては。ついつい、そんな風に思ってしまう人も多いだろう。

私には、二つ上の兄がいる。兄は、小さい頃から変わり者で、言いたいことは包み隠さず口に出す人だ。
兄が小学生の時、クラスでいじめられている子がいたらしい。兄は、いじめっ子に、「そんなことはやめろ」と怒った。そして、いじめられっ子にも「お前も、こんなことされて黙っているな」と怒った。
正直、兄の、何でもかんでもはっきり言う所に苦手意識を持つこともあるが、最近になって、小学生の頃の兄の気持ちが分かるようになった。

私たちは、暗黙の了解の内に生きているということを思い知らされる

ひどいことを言われても、怒らず、泣かず、我慢することを強要される。それも、ただ、“女”であるというだけで。
よく見る光景は、親族などの集まりで、女性だけがせっせと働いているというものだ。料理や、家具の配置だけでなく、集まっている人たちに気持ちよくお酒を飲んでもらうために、愛想よくお酌をする。もはや、お金を取っていいレベルのプロの技だなと、いつも感心する。

昔から不思議に思っていたのは、なぜ、それをするのが女性であるのかということだ。小さい頃は、そういう人たちは、料理を作ったり、おもてなしをするのが好きなんだと思っていた。
しかし、段々そうではないということに気付く。おじさんや年長者がいなくなった途端、悪口が漏れ出し、疲れた表情を見せる。あからさまに悪口を言う人は少ないけれど、少なくとも、楽しくなかったんだということは伝わるものだ。

大人になっていくにつれて、これが日常的なことだということが分かってくる。友人、職場の同僚、家族との会話の中で、私たちは暗黙の了解の内に生きていることを思い知らされる。
あんなに仲の良い気心の知れた友人が、「頑張らない自分が悪いから仕方がない」と、誰に対する弁解なのかわからないセリフを言った時に、一気に知らない人のように遠くの存在に感じてしまった。お金がないことも、家族に迷惑をかけられることも、恋人が浮気をしたことも、仕事を認めてもらえないことも、さっきまであんなに苦しいと訴えていたのに、「仕方がない」はずがないだろう。

たしかに、人一倍の努力をしたわけではなかったのかもしれない。でも、頑張らないで生きていけるほど人生は簡単ではない。可能な限りの努力は尽くしたはずだ。
その努力を知っている私の言葉より、誰が言ったのかもわからない実体のない言葉を受け入れる友人に苛立ちを覚えた。人一倍頑張らなかったことが、そんなに責められることなのだろうか。まして、自分で望んでもいない環境において、なぜ身を粉にして頑張る必要があるのだろう。

どうせ、言ったって何も変わらない。そう諦めた自分に、腹が立つ

私は、とてもがさつな性格で、理屈をこねるのが大好きだ。第一印象では、家庭的、大人しい、しっかりしていると思われることが多いが、その真逆と言ってもよい性格だ。
だけど、面倒だから、普段は真逆の性格で通している。そうすると、女の子らしいと“褒められる”。私にとっては、誉め言葉でも何でもないのだが、「そうですか?」と驚くふりをして笑顔を振りまくと、何だか良い雰囲気のまま、丸くその場が収まるのだ。

こういうことをしていると、たまに、頭が爆発しそうになる。「自分が悪いから仕方がない」と言った子の話を聞いていた時と同じような感覚だ。私が、自分をさらけ出すのを面倒だと感じることと、彼女が「自分が悪いから仕方がない」と言ったことは、同じことなのだ。
その正体は、諦めだ。何も言われていないし、行動してもいないのに、「うっとうしいと思われる」「どうせ、言ったって何も変わらない」。そう思っているのだ。腹が立つ。勝手に女らしさや男らしさを期待する人間も、それに屈して何もしない人間も、そして、いつの間にか暗黙の了解を取り込んで、何も言えなくなってしまった自分自身も。

小学生の頃の兄も、きっと、頭が爆発しそうになったのだろう。そして、暗黙の了解を取り込まず、自分自身の了解を構築しようとしたのだと思う。

私は、一度、暗黙の了解を取り込んでしまった身として生きていくしかない。
でも、以前と違うのは、暗黙の了解の内なんてものは存在しないことが分かっていることだ。勝手にそんなものがあると思い込み、その中で生きていくことに絶望した頃とは違う。

諦めの裏側に、諦めたくない気持ちが眠っているのなら

「自分は幸せになれない」「もっと頑張らないと」「どうせ自分なんて」。そう言った友人に言いたい。
私は、あなたのことをとても大事に思っているし、尊敬している。あなたが頑張っていることも知っている。そんなあなたのことを認めない人がいるのも事実で、そのことに深く傷ついていることも知っている。

だけど、あなたに生きてほしいと思っている人間がここにいる。あなたは、自分は幸せになれないと固く信じているかもしれないけれど、私は、あなたからたくさんの幸せをもらった。だから、どうか、自分に幸せを生み出す力があることを知ってほしい。
私には、あなたの全てをわかることは出来ないし、あなたの望むことの多くは叶えられないかもしれない。私に出来ることは、私が傷つけられて、あなたが怒ってくれた時と同じように、あなたが傷つけられることを許さないことだけだ。不当な扱いを受け流すのも、それに慣れるのも、生きていくために身に着けた術だ。

だけど、本当は傷ついているし、大丈夫なんかじゃない。諦めの裏側に、諦めたくない気持ちが眠っているのなら、もうこれ以上、苦しんでいることを否定しないで。
これからも、悪態をつきながら、時に受け流しながら、一緒に生きてほしい。