「女子力」は2009年にユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされた言葉だ。
誉めるときにも蔑むときにも使われる“呪い”の言葉だと私は考える。10年以上の月日が経ち、もう死語になったかと思いきや、実際は今でも頻繁に耳にする。

手作りのチョコもきれいなネイルも、それって女子力?

たとえば、彼氏を初めて家に呼び手料理を振舞った友人が、「お皿洗いはしてくれて、前の彼より女子力高いんだよ~」と言った。
バレンタインに手作りチョコを配っていた女性社員に女性の上司が「さすが女子力高いね~」と言った。
私のネイル(マニキュアを塗っただけのセルフケアだが)を見て、家事と子育てをこなす女友達は「いいな~女子力高くて」と羨んだ。

1人目の友人は「家事イコール女性の仕事」が定着しているというより、押し付けられていることに気づいていないのかもしれない。料理を作ってもらった方が片付けるのは当たり前の家事分担だろう。家事ができないと女性の魅力が下がる、家事ができると男性の評価が上がるーーどちらもおかしいのではないか。家事の得手不得手は女子力ではない、男女共に必要な「生活力」だからだ。

2人目の上司は、早起きして家族のお弁当を作り、きっと夕食にスーパーで買った惣菜を並べることなどないのだろう。フルタイムで働いているのにと思うと頭が上がらない。
しかし、色とりどりのお弁当に一汁三菜、日本の家庭料理は手間がかかるし豪華すぎる。「男の料理」と呼ばれるものがあるが、それと対照的なものが「女の料理」だとすると、明らかに不公平だろう。悲しいのは、「女の料理」を女性自身も定義してしまっている現実である。
簡単な夕食を作ることやチョコレート手作りしないことは、必要かつかしこい手抜きである。男性も同様のことをするはずであり、それゆえに「女性らしさ」に与える影響などない。

3人目の友人は、家事と育児に追われて、または妻や母の理想像に苛まれているのかもしれない。未婚の頃のように容姿に気を配れないことを悲しんでいるか、夫や他人に不本意に指摘されたか、どちらも起こり得ることだろう。
しかし、ネイルケアの有無で女性間に差など生まれない。ネイルをしている女性が魅力的かどうかは個人の好みであり、社会的規範ではない。

社会が女性に押し付け、女性が自らの首を絞めている呪縛を解きたい

このように「女子力」は、ジェンダー不平等を見えなくさせ、社会がつくったジェンダー観を押しつける呪いの言葉と考える。
褒め言葉として使うことで社会が押しつけてきたジェンダーロールを女性に受け入れさせ、時に肯定させる。蔑んで使うことで女性の自尊心を不要に傷つける。また、挙げた例のように、自らの首を絞めるように女性自身が使ってしまうこともある。

2021年は、日本社会や多くの人々がジェンダーの問題に向き合う節目の年になると考えている。この転換期に、今までの女子力の呪縛を解き、定義を変えることを提案したい。
これからは、「わきまえずに」意見をはっきり述べる、長いものに巻かれずに口をつぐまない、同意のない性行為は許さない、このような行動こそを「女子力」と呼び、周囲の圧力に押し潰されずに実践できたとき、女子力高い!と讃えよう。

女子力を、「信じる力」と「行動力」に。ジェンダー平等な社会へ

一方で、大人の女性に女“子”力とはどうなのかという意見があると思う。31歳の私は女子というには、確かに違和感がある。女子力は若い少女たちに向けて使う言葉だと考え、もう一つ定義を付け加えたい。

それは、ジェンダーによって差別されない社会や男女平等な社会を「信じる力」と、そのためにアクションを起こす「行動力」である。
今を生きる女子、つまり小中学生や高校生が大人の女性になった未来では、夫婦別姓は認められ、ワンオペ育児は死語になり、政治家や管理職の半分は女性が務めているかもしれない。そのような未来を信じ、そのために行動する力を女子力と定義し、その力を存分に発揮して欲しい。女子力高いねと励まし合いながら、誰もが生きやすい社会をつくっていってほしい。

女性が変われば社会が変わるかーーきっとそれだけでは変わらないだろう。
しかし女子力をポジティブでパワフルな希望の言葉に変えることは、ジェンダー平等な社会の実現を推し進めることになるはずだ。
このように定義が変わると、英訳の“women’s power”もしっくりくる、と私は思う。