いわゆる“性”についての討論は、昔に比べてかなり頻繁に、活発に、そして前向きになされるようになったと若輩者ながら感じる。私が小学校低学年の頃、ブルマを穿いて体育の授業を受けていたのが、まだそう古い話でもないから驚きである。
良い時代になっている。これからもっと良い時代になっていくのであろう。
ただ、一つの目標に向かうとき、“みんな同じ方向を向こう”が行き過ぎて、時折排他的になるその優等生的な“良さ”に、ふと息苦しさを感じるのは私だけであろうか。
私は幼い頃から「エロ」に興味を持ち、ポジティブに生きてきた
昔から“エロい”物事に興味津々であった。興味どころの騒ぎではない。大好物といっても過言ではないだろう。
幼少期の子供に見せるべきではないであろうと思われる書物を、床に放り投げていた父が悪いのだ。何事にも好奇心旺盛な私は、もちろんそれを盗み読みしていたし、当時は規制がゆるく、昼間のポストに大量投函されたピンクチラシを捨てられる前に隠れ眺めては、なるほどこれが色気かと感心したものである。性へのファーストコンタクトはいささか早すぎる気もしたが、エロにポジティブに生きてきた。
そうかといって恥じらいがないとか、オープンにしてこそ美学とかそういう意味ではない。
むしろ恥じらいがあってこそエロだと感じているし、エロから恥じらいを取ってしまったらもう何も残らない……くらいの気持ちさえある。だからこそピンクチラシはこっそり拝借していたのであるし。
たとえば祖父の書斎にある大きな本棚に並んだ官能小説が、小さな頃は手の届かない、一番上の段にあったからこそ良かったのだ。届きそうで届かない、こっそりと見えるそれらはまるで、隠された財宝のように思えた。
時折汚らしくて、卑猥で、口にするのも恥ずかしい、隠すべきそれらのすぐ側に、麻薬のような快楽が横たわっているのを想像した。大人たちがひた隠しにしようとすればするほど、エロはより魅力的に写ったのだ。エロに存するその“恥じらい”と“快楽”は、私にとっていわば表裏一体、不可分の関係である。
女性の女性自身による「自己開発」商品も積極的な進化を遂げている
昨今、上に挙げたように性に関する議題は多く取り上げられ、女性の女性自身による自己開発商品も積極的な進化を遂げている。株式会社典雅から女性用セルフプレジャーアイテムである『iroha』シリーズが出てきたときは、なるほどこれは新しい時代に突入したなと感じたのは私だけではないはずだ。
まるでちょっとしたオブジェのような見た目は、従来のそれとは大きく異なり、恥ずかしがり屋さんでも手に取りやすく、部屋にそっと飾りたくなるような奥ゆかしさすら湛えている。
それまで自己開発などに消極的であった人も、積極的に自身の体や性という概念と向き合う機会が持てるそれらの登場は、とても画期的で、かつ次代に必要だったといえよう。
女性だからきっと恥ずかしいだろう、恥ずかしいから手に取り辛いであろう。エロっぽくなくして、体と自身と向き合うという高尚な前提の下であれば、とっつきやすいだろう。それも大切な一意見であることは間違いない。
自己開発商品が増える一方で、恥じらいを持つことがタブーになる?
ただその一方で、小洒落たそれらが台頭していくうちに、今度は恥じらいを持つことがタブーとされそうで私は怖いのだ。
見た目の卑猥さから、気分の高まりを感じることだって大いにある。エロがエロを離れる必要がどこにあろうか。高尚さを求める人もいれば、卑猥さを追求する人もいて、恥じらいを感じない人もいれば、そうでない人だっている。
そ
恥ずかしいからこその“良さ”を感じる人間だって確かにいるのだ。杞憂であれば良いのだが、それらを排除することだけは決してしない世の中であって欲しい。
感情や感性は、一人一人違う。違ってこそ人間である。すべての人間に合った変化などありはしない。一つの変化をすべての人間に当てはめることなく、一つ一つの感情に気付き共存していく。これこそが多様性の意味であり、私の望む将来への変化である。