“かわいい”と得をする。というよりも、“かわいい”と思われると得をする、がしっくりくる。大学生以降、顕著に感じるようになった。
かわいい女の子は、男女の集団のなかで目立ち、男性に明らかに贔屓される。変なからかいを受けることもなく、奢ってもらったり、褒められたり。女性の中でも、良いか悪いかは別として“かわいい”女の子は羨望の目で見られる。かわいいその子と一緒にいる女性も、なんだか力を持ったみたいに、その得を一緒に楽しんでいる。
恋人ができても、研究室やサークルでも、バイトでも、就活でも。何をしていても「あの子はかわいいから」は、なんでもうまくいくことの形容詞みたいだ。
日本に横たわる「かわいい」に無意識の内に苦しめられている
街中にも、“かわいい”という言葉は溢れている。かわいいは正義、かわいいは作れる、かわいくなって自信を持とう。脱毛して、エステして、コスメを買って、もっとかわいくなろう。
かわいくなったら、“いいこと”があるから。だから、かわいくいたほうがいい。あまりにも当たり前のようにある雰囲気のなかで、ふとその、“いいこと”とはなんだろうかと考えた。その“いいこと”は、私が本当に欲しいものなのだろうか。
そう感じるようになったのは、社会人として、働き始めた影響が大きい。私は今、医療現場で働き、社会人2年目の25歳だが、社会というか日本に横たわる“かわいい”を多用する雰囲気に、意識的にも無意識でも、自分が苦しめられ、周囲の女性も悩んでいるように思う。
“かわいい”が、外国語に訳しにくいと知り驚いたことがある。英語でcuteには当たらない。cuteは“子どもっぽい”、“未熟”というニュアンスもあり、相手を見下している印象があるという。
しかも、海外の女性を、テレビなどのメディアは「かわいい」とはいわない。「美しい」「綺麗」「美人」という。“かわいいハリウッド女優”なんて、聞いたことがない。なんでこんなに日本では、“かわいい”が女性の形容詞になっているんだろう。
かわいいかどうかの指標に振り回されることが、私はすごく息苦しい
“かわいい”と得をするとは、つまり他者に危害を加えない従順さゆえに、誰かから守られることで、そこには主体性がない。他者から与えられる得だから、その他者からの“かわいい”という評価に見合うように、選んでもらえるように、かわいくいなくてはならないと思わされてしまう。
仕事やキャリアでは、“かわいく”思われたいかどうか、で、女性の進む道は違うとも思う。キャリアを積み、競争する時には、何かや誰かと衝突することもある。その時に自分の意志を持ち、意思を示し、向き合う姿は、正直“かわいくない”のだ。かわいく思われていたいなら、相手に従順に、反論せず、怒らず、言う通りに一生懸命頑張っていればいい。でも、“かわいい”と誰かに思われることが仕事にとって、有利に働くような場面も職業もあるのでは? といわれるかもしれない。その場合は、何歳になっても、ずっと“かわいく”いなくてはならないという縛りがあると思う。
恋愛や結婚といった場面では、誰かから選ばれたいという思いが、“かわいい”と思われたいとほぼ同じだと思う。男女それぞれの結婚に求める条件の調査で、男性が女性に求める条件の1位は、圧倒的に外見だったという。男女関係になると途端に、女性は愛するという主体から、愛されるという受け身になることが求められて、そこには“かわいい”が大きく幅をきかせている。
かわいいかどうかの指標に振り回されることが、私はすごく息苦しい。他者からの声ばかり気にして、自分が何を思っているのか、何をしたいのか、わからなくなってしまうから。そのときに犠牲にしているのは、社会で自立したいという私の思いなんじゃないだろうか。自立は経済的にだけではなく、自分の意見も、意見を発信することも含んでいる。
だから、私は“かわいい”と思われたいという、自分を変えたい。“かわいい”と思われて得をすることよりも、選ばれる女の子になろうと努力するのでもなく、自立した一人の人間になる、大人になる生き方を選びたい。
他の人から「かわいい」と思われるかどうかなんて、いらない!
“かわいい”を求められなくなってきたからといって、“大人かわいい”を目指すのではなく、他の人から“かわいい”と思われるかどうかなんて、関係ないと胸を張りたい。
“かわいい”と周りから見てもらっていないと、社会的に女の子はうまく生きていけないという、自分の中に根本的にしみ込んでしまっている心のフィルターを取り払いたい。
でも、その悩みでさえ、“かわいくなれば”解決するかのような文言が、一歩外に出れば、溢れている。かわいくなって自信を持とう。自分らしくなるためにかわいくなろうと。
25年も付き合ってきた“かわいく”いたほうがいいのだ、と自分の無意識の感覚を、すぐには取り外せないと思う。街中で“かわいいは正義だ”なんて文句を見ると、ぎゅっとまた引き戻されるような気がする。
でも、これからは今その思いにとらわれているという状態に、きっと気づくことができる。自分が変われば、自分の心の受け止め方が変われば、周囲の言動や反応の受け止め方も変わる。
自立した一人の人間になること、自分の思いを発信することを怖がらないでいきたい。「かわいくない」と言われようと、「わきまえない女」と言われようとも。