私はあらゆる場で、見せ方を変える。

見た目も声色も言葉選びも全て違う。仕事場でも家でも外出先でも、家族でも友人でも全て違う。

場所や接する相手によって、私は「見せ方」を変えている

私の平日の1日は、起きて朝の挨拶から違う。祖母には「おはよう」、姉には「ぱよ!」、その時の仕草も両親にはあっさりした態度、姉にはかわいらしさをアピールする態度と変化させる。

外に出れば、そこから私の仕事モード。教員としての私が発動。ゴミ当番の人、散歩する地域の人、旗当番の人、すれ違う地域の人たちに挨拶をする。返事が返ってこなくても、挨拶をするのが仕事モードの私だ。

仕事モードは仕事モードでも、クラスによって見せ方を変える。相手の様子や相手の気持ちに応じて、自分を演じる。このクラスは明るくテンション高めに。このクラスはキリッとしめる感じに。このクラスは柔らかく穏やかな感じに。

日によって、気分の違う子どもに合わせて変えることも多い。子どもは先生の機嫌や様子を敏感に感じ取りやすい。不安にさせないためにの私、ときに高学年を意識させた引き締めるための私。感じ取りやすいからこそ、その日の様子を瞬時に判断し、私はその場で適した私を見せる。

見せ方を変えているから見た目も行動も話し方も「別人」のように違う

また、仕事モードの中には、学校モードと塾モードがある。ふるまいも変えるが、学校と塾では大きな違いがある。見た目だ。

学校はコンタクトで行くが、塾には眼鏡で行く。見た目の見せ方の変化だ。これは自分の中での大きなスイッチの切り替えになる。眼鏡をかけることで、知的感が増す気がする。その気になれば教えられる! と背伸びして、小学生から高校生までの生徒に勉強を教える。

本来それほど学力が高いわけでもないが、見た目から自分はできるという気持ちに持っていき、授業に臨んでいる。小学生にはゆっくり優しく話し、高校生には自分も学生のようなノリで話す。私は学校に行くことが難しい生徒も担当していたので、話しやすい雰囲気作りも重要だった。体をかがめてみたり、目線をあえて逸らしてみたり、自然とすることもあれば、意図的に私の見せ方を変える。

見た目の変化の中でいえば、化粧の仕方も違う。普段は最小限の化粧、撮影会に参加していた時は目元のアイラインまで丁寧に。気合の入れ方から見せ方まで違う。

考えてみると、見た目も行動も話し方も別人のように違う。おそらく、私を知る人も見せ方の変えた私を、私だと気づかない人もいるだろう。まるで別人の私。そんな私の姿を知ったら、軽蔑するだろうか? いつも接している私は「偽りの姿だ」と言われてしまうだろうか?

周りから偽りだと思われても、たとえ軽蔑されたとしても私は「私」

小学生の頃「そんな人だと思わなかった…」と担任の先生に言われた。お利口な私を演じてきた。クラスで群を抜いてお利口だった私は、先生からいじめられっ子を次々と押し付けられた。しかし、押しつけられるうちに、2人組になりたい相手がいても、先生が押しつけるいじめられっ子が私の相手になった。だから、先生に「やめてほしい」と言った。その時言われた言葉が「そんな人だと思わなかった…」だった。

明らかに軽蔑した言葉。今でも忘れることはない。お利口な私も「やめてほしい」と言った私も私だった。お利口な私は認められていて、正直な気持ちを口にした私は軽蔑された。担任の先生には両方私なのに、別人のように捉えられ、軽蔑された。

だからといって、私はお利口を演じている私も正直な気持ちを口にする私も嫌いじゃないし、自分自身だと思っている。偽りではない。

私の中にいる私を引き出している。私の中にはたくさんの引き出しがあふれていて、その引き出しを引くタイミングを見計らっている。時には、相手の意に沿わない私もある。

偽りだと思われるかもしれないほど変わってしまうが、どれも全て私の中にいる私。私は周りから偽りだと思われたとしても、たとえ軽蔑されたとしても、私は私を誇りたい。たくさんの見せ方がある私。引き出しのたくさんある私っていいなって思いたい。