「世界に一つだけの花」SMAPの一番有名なこの曲は、小学校の音楽の教科書にも載っていて、やたらめったらみんなで歌っていた記憶がある。
みんな違ってみんな良い、というアイデンティティの尊重の重要性はこの歌詞からよく伝わってくる。けれど、私は小学生の頃から少し疑問に感じていた。「人と違う特別な何かがない人は、一体どうすればいいの」
平凡が当たり前だった昔と、平凡じゃいられなくなった今感じる違和感
学校の成績は特別悪いわけでもなく、かといって100点満点が当たり前な生徒でもなかった。お絵描きや折り紙、工作に秀でてるわけでもなく、字はどちらかといえば汚いほう。ドッチボールは、チームの迷惑にならないように必死に逃げるけど、ボールをとって投げることは絶対にできない。いじめられっ子でも、クラスのリーダーでもなく、リーダーの二番手の親友くらいのポジションが定位置。
平均的で普通な、学園ドラマの一般生徒③という感じの自分は、「多分、世界に一つではなさそう」と幼いながらに感じていた。そして成長するにつれ、その感覚が強くなっていったのは、多分この頃の社会の風潮の変化が関係しているのでないか。
昔は、「普通」の型に上手くはまれない人たちは、社会の隅っこに追いやられていたと思う。
子供の世界なら「みんなと同じじゃないから、あの子は変だ」そういう理屈でいじめが起きたり、大人の世界でなら、人と違うことにチャレンジする、例えば起業したり、仕事を急に辞めて海外へ行ったり、そういう人を「あの人はおかしい、変人だ、大人として常識がないね」なんて言って、馬鹿にしたり、奇異なもの扱いしていた時代は長かった。
「人と違う=素敵」は良い風潮。でも、普通でいることはダメ?
私自身は平成生まれで、全てを体験しているわけではないけれど、当時の本やドラマ、親の若い時の話などを見聞きしている限り、昭和から平成初期はこんな時代だったと思う。
けれど「世界に一つだけの花」がリリースされたくらいから、「マイノリティ」としてそれまで扱われてきた人々の活躍に目が向けられるようになり、「人と違う=素敵なこと」という新たな価値観が生まれた。そして平成後期から令和にかけて、個人の尊重だったり、一人ひとりの個性をお互いに大切にしていこうという雰囲気が、社会に広がっていき、見た目も中身も人と違うことは全く悪くない、アイデンティティって大事だ、という考え方は普及している。
この考え方自体はとても素敵だと、心の底から思うけれど、一方で今度は逆に「平々凡々への逆差別」が社会の内側で無意識のうちに生じているのではないか、そう思ってしまう自分がいる。「特別なオンリーワン」「人と違う何か」が持て囃されれば持て囃されるほど、「普通」であることがダメなことになってきてしまっていると、私は感じている。
平凡さに寛容じゃなくなった社会に願う。他人が価値を図らない時代へ
みんながみんな、何かしらの分野で他人と全く違う自分を持っているわけではなくて、どうしたって、どんな分野でも他人と同じような自分しか出てこない人がいても、おかしくない。けれどそんな「平凡さ」に、もはや社会は寛容じゃない。
入学試験や就活の面接では「あなたの強みはなんですか」と必ず聞かれるし、「人と違う自分」のアピールをいつだって求められてしまう。それで人並みの答えしか出せないと、微妙な顔をされてしまう。
アイデンティティを見つけ出すのが難しい、自分だけの特別が見出しにくい、そんな私みたいな人にとっては非常に生きづらい世の中だ。これが「オンリーワン思考」の盲点のような気がする。
結局、生きづらさを感じる人の集団が変わっただけで、「みんな違ってみんないい」の普及が全てを解決したわけではないのだということを、私は言いたい。この価値観が生まれたことで、自分の平凡さに悩まされて息苦しい人だっているのだ、ということをもう少し大声で世間に伝えてみたい。
「自分だけの強み」がなくても、アイデンティティのない人間として落っことさないでほしい。特別なオンリーワンでなくても、たった一人の存在になれなくても、日々は巡るのだから、人としての価値を、他人が図ろうとするのはもうやめにしよう。そんな時代に変えてみたい。