雷がさかんだった故郷で、雨は日常茶飯事であったため、雨が降るたびに思うのは、ここ最近は故郷のことである。
上京して大学の寮に住んでいた時、雷の音に耳を塞ぎ「きゃぁ」と声を上げるルームメイトを横目に、じっと空を見つめて「あ、また光った。何秒で音がするかな」と可愛げもなく声をかけて励ましていた。
私の故郷と東京では「雨女」のイメージが異なることに寂しさを感じた
雨と雷は、故郷の馴染みの風景だった。中学1年生の英語の授業の時に、自己紹介で「私は雨女です」と表現する場合、向こうではそんな言葉ないので「彼女は雨をつれてきます」等、若干捻った表現を用いないと表現しきれないことがわかった。
雨女という表現がイマイチであり、なおかつ故郷の雨は雷雨が多いため、頭を捻った末に後ろの席の友達とボケた答えに「サンダーガール」という恥ずかしい表現を思いついたことをなんとなく覚えている。
響きが魔法少女っぽいと勝手に喜んでいた、分かりやすい厨二病であり黒歴史だ。部活帰りに田舎道を帰る時に、雨が降ると空が頻繁に光っていた。
東京に出ると、田舎ほど雷雨はない。「雨女だから」とさらりと言える歳と環境に身を置いた今、雨の音を聞くと、どこか少々物足りなくも感じる。
東京に来て衝撃を受けたことは「雨女」と言うと、本来のしとしととする雨の音や、雨に付随するインドアな趣味が連想され、「大人しそうな」「寂しげな」というイメージが世間一般体の「雨女」のイメージであることであった。
灼熱の砂漠の地域では「太陽みたいな人」を「冷酷な人」とする場所があるらしいが、故郷で「雨女」を自称していた際の言い草とほぼ真逆だ。
故郷の面倒臭くうるさい土砂降りも、いかつい雷の音も、懐かしい風景で、あまり見に覚えのない、どこか絵本のような風景に頭の中でなりつつあるのが少々寂しく感じた。「雨女?!めっちゃ元気なのに?」そう、返されてさらに寂しく感じた。東京に出て、「雨女」をあまり自称しなくなった。
コロナ禍で田舎に帰省できず、雨や雷の鬱蒼とした空が恋しくなった
田舎に帰省をするお盆の時は、いつも空が曇っていた。電車を降りると、モノクロの蔵がぼんやりと並んでいて、空の上は基本的にどんよりとしていて、現代なのになんだかモノクロでモザイクアートみたいな風景が広がっていた。
朝起きるのを渋って夕方くらいに故郷に着く時に限って、東京は晴れなのに、こっちにくると雷が鳴って、ゴロゴロとすると、嫌なタイミングで雨が大抵降るのだ。「さすが雨女、雷女だな」と言われると「なんか怖そうだからやめてくれない?」と返したくなっていたが、都会で私が自称する「雨女」よりもどことなく解像度が高い。
今年の夏は、コロナ禍の中で帰省ができず、一人のお盆を迎え、その後一人の正月を初めて迎えた。帰省すると、大抵天気が悪い日が1日ある。そんな故郷の風景は、どこふく風で綺麗な空の正月を見た際に、鬱蒼とした空が見たくて久しぶりにホームシックになりかけた。
基本、田舎にあまり良い思い出はないのだが、少なくとも「雨女」に静かな印象はあまりなく、帰ってくるたびに気持ちよく使っていた。滅多に名乗りもしないひとりぽつりと都会の「雨女」になって、そんな空間がちょっと寂しくなった。
寂し気な時もゴロゴロ鳴り響く時もある、1つの性分じゃない「雨」
この前、東京で久しぶりに雷を聞いた時、ちょうどその時は大学の友達とテレビ電話をしていた。激しい雷雨に、どことなく心が躍る自分がいた。久しぶりに「私雨女だから」と、嬉しい自分がそこにはいた。
「ずいぶん元気な雨女だなぁ」と返される。
「はっはっは。そりゃあ私は雨女のサンダーガールですから。雨女のキャラクターは1つじゃないぞ」と高らかに笑って返してすぐに、落雷が気持ちよく落ちた。ぽつぽつしたしょぼくれた私の中の雨が、激しく元気になっていった気がした。
東京で雨が降るたびに「パンチがたりねぇな」と思いながら、故郷の雷とどんよりした空と風景を思い出す。さすがにサンダーババアになる前には帰れると思うけれど、あと1回くらいサンダーガールが通用するうちに、ちょっとだけ故郷に帰りたいな。
そう、ぬるい都会の雨が降るたびに、なんとなく思う。
雨の性分は1つではない。寂しくとも激しくとも、雨は雨である。雨女、それとサンダーガール。都会でも元気に自称したいものである。