実家から荷物が届いた。そういえば、「お餅をついたから送るね」と先週あたりに母から連絡がきていたのを思い出した。「荷物、玄関に置いておいてもらえますか」と、宅配業者の方とのこんなやり取りも、ここ一年ですっかり日常と化した。

私は望まれている結果を返してきたけど、これからは落胆させるかも…

やけに重たいその荷物を、玄関から台所まで運ぶ。頑丈に貼られたガムテープをビリビリと剥がしていく。段ボールを開けると、柑橘の甘酸っぱいにおいが鼻をついた。隙間なく詰められたお餅やお菓子と一緒に、ひとりでは食べきれない量のみかんが入っていて「ああ」と思った。

年始に家族とテレビ電話をしたときもそうだった。友達の結婚式の有無や産休、育休など会社の福利厚生について。画面越しに、期待や詮索を身に纏った言葉が飛んできた。軟球をいくつも投げつけられているような感覚だった。それならいっそ、硬球を一発思い切りぶつけてほしいと思った。

私はいつだって、望まれている結果を返してきた。学生時代は部活動に励んでいたし、テストだって常に成績上位をキープしてきた。そこそこ良い大学に入り、安定した会社に就職した。

ご近所さんに近況を聞かれても、恥ずかしくない答えになるような道を選んできた。自分も周囲の人も、それなりに納得できる選択。怒られることも、心配されることも、迷惑をかけることもない選択。

でもきっと、これから数年かけて、初めて両親を落胆させるのだと思う。私の左手の薬指で指輪が光ることも、私の遺伝子を持った人間がこの世に生を受けることもない。私にはそれらへの願望がないからだ。いや、私にはとても手に入れられないものだと思い込み、選択肢から消しているだけなのかもしれない。

お付き合いや結婚、出産など、今の私には取りづらい場所にある

思い返せば、私が出してきた結果は、手を伸ばせば届く範囲のものばかりだった。自分で取れそうな場所にある中で、良質なものを選んで渡してきた。取りづらい場所にあるものは、別の場所から同じようなものを探してきた。

だが、今回欲しいと言われているものは、はるか上に一つだけあるもので、しかも私はそれが魅力的だと思っていない。取りに行く気にもなれず、ただただその場で見上げている。

そもそも、なぜふたりでいるから得られる幸せが、ひとりでいるから得られる幸せより大きいと思われているのだろうか。それとなく考えを伝えたこともあったが、独り身の強がりにしか見られず、次第に面倒になった。

ひとりだからこそ得られた成果――例えば、叶えた夢とか手に入れた地位とか――が伴っていなければ、ひとりを“選んでいる”ようには見られない。交際や結婚や出産は、得たものに目を向けてもらえるのに、そこから溢れた人は失ったものばかりがフィーチャーされる。ひとりだってふたりだって選んだ結果に変わりないのに、ひとりは“選ばれなかった結果”にしかなり得ない。

両親と次会うときは、なにかを差し出せる人間になっているだろうか

両親からすると、私はこの先もずっと良質なものを差し出してくれる子なのだろう。だから、誰からも選ばれなかった私ではなく、誰も選ばなかった私でいなければならない。はるか上にあるそれと同等のものを、作り方なんて分からないが、それでも育て上げなければならないのだ。

メッセージアプリを立ち上げ、「荷物届いたよ」と打ち込む。このご時世で、もう一年以上実家に帰っていない。帰れない口実ができて、少しだけ安心したのも事実である。今や実家への道のりは、実際の距離以上のものになってしまった。

次に会うときまでには、なにかを差し出せる人間になっているだろうか。せめて、その種くらいは握りしめていたい。

私の意思も、申し訳なさも、期待も、そういったいろんなもの全部を乗せて、飛んでいけと願いながら「みかん多すぎるわ」と付け足して画面を閉じた。