朝、私は毎日のようにクローゼットを開け、服を選ぶ。

今日は天気が良くて、朝日が眩しい。お気に入りのマーブル模様のセットアップにしようか、それともボーイッシュにサロペットにしようか……。気温何度かな? これならブーツの方が似合うかな? 今日行きたい場所をピックアップし、考えをめぐらせる。私の休日の朝は、服を選ぶところから始まる。

他人からどう見られるかうを計算した結果、私は武装するようになった

いつからかはわからない。けれど物心つく頃には、私は“他人からどう見られるか”ということをかなり気にしていた。幼稚園では、土遊びしている子たちを横目に、1人で絵本を読んだり、文字を書いたりしていた。自分も子どものくせに「みんな子どもだなぁ」と内心思いながら、土遊びしている子達を眺めている日々。いかに子どもっぽく見えないかを考えて、振るまっていた気がする。

中学生になると、クラスに馴染めないイタイ子になりたくなくて、愛想笑いがすっかり身についてしまった。“制服の着こなしこそ落ち着いていて、所作も丁寧なきれいめ系女子だけど、実はノリのいいキャラ”を目指していた。

思い返すと、設定が謎すぎて完全に迷走していたと思うし、多少ぽっちゃりめだったから、たぶんそんなキャラに見られてなかった。

高校時代は、制服のスカートをギャルにならない程度に短くしたり、セーターを伸ばして伸ばして萌え袖にしたりと地道な努力を重ね、大人しくないけど派手じゃない位置をキープし続けた。

一方私服は、ライダースに派手な柄のミニスカが定番。「誰かに会ったときに学校とのギャップがあるように」とまで計算していた。しかし、そういうときほど誰にも会わないもので、おそらくクラスメイトのほとんどは私服の私を知らなかったと思う。

こんなふうに見え方について、とにかく計算し続けた結果、いつのまに“服”と“メイク”に納得できないと外出できなくなってしまった。もはや、“武装”と呼んでいいだろう。

社会人になると服やメイクで武装できなくなり、休日だけ楽しんだ

“武装”のテイストによって、振る舞いも変わるのが不思議である。きれいめ系のときは足を揃えて座り、ゆっくり話すし、ボーイッシュ系のときは歩き方が気持ち大股になり、少し砕けた話し方になってしまうのだ。我ながら、自己プロデュース力に長けてるんじゃないかと笑ってしまう。

近所のコンビニに行くときすら、きちんと着替えてファンデーションとアイブロウくらいは塗る。ジャージでブラブラするなんてもってのほか。正直、ブラブラできる人たちが羨ましい。

ときは移り変わり、社会人になった頃。当時、保育士をしていた私。その園ではネイルやアクセサリーがNG、メイクもあまりできない雰囲気だったので、やむなく日焼け止めとパウダー、アイブロウだけのメイクをしていた。ときどき爪を磨く、前髪を眉上に切るなど、それなりの悪あがきはしていたが、“武装”には程遠いものだった。

そのかわり、休日の服装とメイクはどんどん派手になっていった。休日だけ“武装”して、電車に乗り、街をブラつく。それだけで高揚感があった。それが私が私でいられる唯一の時間だった。

普段はほぼすっぴん、休日は派手めの服とメイク。大好きな子どもたちにすら見せられない姿を隠し持っていることに、ずっと秘密を抱えているような、罪悪感すら感じていた。

結局、他の理由で退職したが、新しい職場でメイクもネイルも服装も自由になり、心底ほっとしたのを覚えている。“武装”は思った以上に、私を私たらしめるものだったようだ。

外では武装をしてないと、自分が「自分でなくなる」気がする

見た目にコンプレックスがあるかと聞かれて、強いて言うなら少しぽっちゃりなくらいで、深刻な悩みを抱えているわけではない。自宅にいる分には、どんなにだらしなくても良くて、パジャマで一日終わることもザラだ。

それなのになぜ、“武装”しなければ外に出られないのか? 他人からの視線を気にするうちに、“服”と“メイク”での“武装”が、オフィシャルな自分の一部分としてすりこまれてしまったのかもしれない。外では“武装”をしてないと、自分が自分でなくなる気がするのだ。

私にとって、“服”と“メイク”で“武装”することは、オフィシャルな自分が自分でいるために必要なこと。“他人からどう見られるか”という視点は、歳を取るごとにどんどん薄れてきた。それでも、外に出るために“武装”をするのは、自分という人間を「自分でいいんだよ」と優しく肯定したいからかもしれない。

今日も、私は鏡に向かってメイクをし、お気に入りのマーブル柄のセットアップを着て、ピアスをつけて外へと出る。今日はどこへ向かおうか。