「見られ方」が気になる私は、無意識に人を接待している

正直に告白するが、わたしは自分が他人からどう見られるかが、すごく気になってしまう。そんなわたしが困っていることに名前をつけるなら、「無意識の接待」だろう。
わたしは他人と話をすることが好きだ。初対面の相手と会話することはまったく苦ではない。そう最近まで思っていたが、そうでもないことにやっと気づいた。
わたしは、無意識に人を接待している。

接待といっても、会社がするようなものではない。人の話をひたすら肯定してしまったり、話題を切り上げることができなかったり、自分の意見を言うことができないのだ。これは、ひどく困った癖だと思う。

数年前、療養中だったある日、確か5月のことだ。
わたしは通院の帰りに、当駅始発の列車に乗った。ガラガラだったので、ボックス席に座って発車を待っていると、ひとりのおばあさんがやってきた。

ある時、電車の中で話しかけてきたおばあさんの話し相手になってしまった

「座ってもいいですか?」
彼女にそう尋ねられたわたしは、「はい」と答えた。斜向かいに座ったおばあさんは荷物を置くと、わたしに話しかけてきた。
「今日は暑いですね」
「そうですね」
 そこで話が終わるのかと思ったが、おばあさんはさらにわたしに話しかけてくる。
「今日は美術館に行ってきたんですよ」
「そうですか」

わたしだったら、Twitterにでも呟いて感動を共有するが、おばあさんにはそんな手段はないのだろう。無下にすることもできないので、わたしは相槌を打ち続けた。
「〇〇さんの展示でね、綺麗な版画だったんですよ」

おばあさんが鞄の中から、ポストカードを取り出すとわたしに見せてきた。そして、そのまま終点まで2時間、わたしは見知らぬおばあさんの話し相手になってしまった。

おばあさんが夫であるおじいさんとレンタルで昔の映画を見ること、息子の名前はお坊さんにつけてもらったありがたい名前だということ、おばあさんは花が好きだということ。本当にいろいろな話を聞かされた。あとから座ってきた、また別のおばあさんまで巻き込んで、美術館帰りのおばあさんはノンストップで喋り続けたのだった。

このおばあさんには、それ以来会ってはいない。けれど、今でもこういう相手には、どうしていいかわからないのだ。

無意識の接待を続けることは、大切な人たちをあざむくことになる

無意識に他人に合わせてしまうのは、まだ変わっていない。学生時代の最初のうちは、わたしを傷つけてくる相手とも交流してしまっていた。今日も、言いたいことが何度も言えなかった。ひどく些細な事だけれど。
こんな風に文章でなら言いたいことが言えるし、顔が見えないボイスチャットでも自分の意見が言える。それなのに、面と向かって誰かと話すとなると、思ったことがまったく言えなくなってしまう。

無意識の接待がやめられない。このままじゃ嫌だと心は強く思っているのに。どうしたら、無意識の接待をなくすことができるだろう。自己肯定感を高めればいいのだろうか。

わたしのこの自己肯定感の低さは、自分自身への愛情不足からくるものではないかと思っている。わたしは自分自身のことを、あまり大切に考えることができない。今はまだ、他人がわたしを認めてくれることで、なんとか自分を認めているようなところがある。だからきっと、自分が望まないのに、無意識の接待を繰り返してしまうのだ。

誰かに認めてもらいたい、否定されたくないという、そんな気持ちに支配されて。
けれど。ふと、わたしは思う。
好かれたい人に嫌われて、嫌われたい人に好かれてしまったらどうする?
困る。それはすごく困る。現にそれで苦しんだ過去があるのだ。

それに今は、大切な人たちがたくさんいる。無意識の接待を続けることは、その人たちを欺き続けることにはならないか?
わたしは無意識の接待をやめる。たった、今から。