緩衝材。
物どうしがぶつかり合う衝撃を吸収して、中身を保護するための材料。
人間関係にも、緩衝材と呼ばれる存在がいる。学生時代、私はまさにグループの中の緩衝材として扱われ、幾度となく衝撃を緩和してきた。大きな衝突から、小さな不和まで。グループ内で生まれた不満は「どうぞこちらにお問い合わせください」とばかりに、全ての子の声に耳を傾けていた。

私の役割は緩衝材。ほころびを修正する誇らしいポジション

思えば、当時は緩衝材として振る舞う事が自分の存在価値のように感じていた。
人見知りで、変わり者として孤独な幼少時代を過ごした私が、周りに溶け込む最善(だと信じてやまなかった)方法。それが、自分を消すこと。
何があっても、何を言われても怒らない。いつもニコニコとみんなの話を聞く。決して誰か特定の人物を貶めることはせず、かといって愚痴や不満も否定せず、ただひたすらに一人ひとりの声に耳を傾ける。
そう振る舞い続けた結果与えられた役割が、緩衝材。
嬉しかった!私にも、できる事があったのだ。この世界に存在して良いのだと言ってもらえたようだった。
それも、グループの要となるような役割で。友人たちに必要とされることが、役に立てることがたまらなく嬉しくて、幸せだった。自分はこの子たちの緩衝材なのだと、よりいっそう周りの不満を聞いて、受け止めるようになった。小さなほころびを見つけるたびに、私が直さねばと躍起になって奔走する日々。

そんな幸せ絶頂期の私に、ふと声をかけてきたクラスメイトがいた。
「無理してるでしょ」と。たった一言。
どんな言葉を返したのかは覚えていない。多分、理解が出来なくて笑って受け流したのだと思う。
無理だなんて、そんなこと。こんなに充実した日々を送る私にかける言葉ではないじゃないか。当時は心の底からそう感じていた。

限界は、ある日突然やってきた。

「無理してるでしょ」が現実化。「しまった」の後の世界は広かった

耐えられなくなったのだ。不満の捌け口にされる事が。グループに必要なのは「緩衝材」であって、私自身ではなかったことが。自分でも驚いた。でも、気づいてしまったらもう後には戻れない。あの時のクラスメイトの言葉は正しかった。
そこからは早かった。あれだけ全員を繋ぎとめようと執着していたグループの友人たちに初めて本音をさらけ出し、大喧嘩をして距離を置いた。
やってしまった。言ってしまった。頭の中には後悔が滝のごとく流れ続けるのに、妙に心は晴れ渡っていた。
初めて、自分の心の声を知った気がする。自分と向き合えた気がする。ずっと無理をしていたのだ。一番大切にしなければならない自分の事を、ないがしろにしていた。周りの人間に馴染むために自分の中の悪い部分や本当の気持ちに蓋をして、存在しないもののように扱っていた。どんな風に見られるか、そればかりを気にしていた。

そうだ。私にだって、いじわるな気持ちがある。ずるい部分だってある。愚痴や不満を言わず、いろんな人の声に耳を傾けていた優しい私も、確かに私。
でも、誰にも見せまいと隠していた幼少時代の変わり者の姿だって、心の中に湧き出るいじわるな本音だって、私の一部なのだ。どんな私も認めてあげよう。友人たちの声を聴いていたときのように、自分の声も聴いて、受けとめてあげよう。全ての人に見せる必要はない。
まだ、自分を知られることは少し怖いから。本当に信用できる人が現れた時だけでいい。その時までは、私と私だけのとっておきの秘密にして、何食わぬ顔して生きていく。そう考えると、自分のずるい部分すらなんだか愛おしく感じた。

今も、自分の振る舞いに大きな変化はない。それでも、自分を大切にすることで周りからの見られ方、扱われ方は格段に優しくなった。自分の声に丁寧に耳を傾け、捉え方を変える。それだけで心は軽くなるし、自分の目に映る世界も優しく軽やかになってゆくのだ。
私は、今の自分が大好きだ。