私の地元のスーパーには、入口の近くにイートインスペースが設置されている。
その一角には机と椅子が並べられていて、そこに座っている人の顔が見えにくいように仕切りが置いてある。

明らかに困っている、でも多くの人は手を差し伸べなかった

先日、いつものようにその前を通りかかったとき、「あー、あー!」という声が聞こえた。
振り向くと、仕切り板の隙間から、おじいさんが車いすから落ちている姿が見えた。
一緒にいるおばあさんが、おじいさんを必死に支えていて、恐らく一人で車いすに乗せようとしていた。
おじいさんは自分の足で立つ力が無さそうだったし、車いすも固定していないのでどんどん動いて行ってしまっていた。

私は咄嗟に駆け寄って、大丈夫ですか?とおばあさんに声をかけ、おじいさんを一緒に抱えて車いすに乗せようとした。
でも、無理だった。
とんでもなく重かった。
私とおばあさんの力では全く動かなかった。
私は、自分がちょっと若いから軽々持ち上げられると思っていたところがあった。
とんだ思い上がりだった。
足に力が全く入らない人を持ちあげるのが、これほどまでに大変だとは思わなかった。
おじいさんが床に寝そべってしまわないように支えるのがやっとだった。

周りには、若者が何人もいたのに誰も手を差し伸べようしなかった。

2人じゃどうしようもない……。どうしよう……。と思い始めたとき、60代くらいのおじさんが助けに入ってくれた。
後からその方の奥様らしき人も加わってくれて、総勢4人で1人を車いすに乗せた。
助かった。
60代の夫婦の方が助けに入ってくれて非常に有り難かった。

自分の手足を、世のため人のために使って

この日、私は、見て見ぬふりをする、素通りしていく人の多さに驚いた。
それは、この出来事がある前から思っていたことではあったけれども、改めてそう感じた。

あまりにも「鈍感力」が高すぎやしませんか?

人の痛みに敏感でいることが、常に良いことだとは思わない。
自分も傷つきやすくなると思うから。

でも、他人を思いやる気持ちは、人の気持ちを考える力であり、想像力である。

あまりにも想像力の欠如した人間が多すぎない?

私の感性は、私のためだけのものではない。

私の見える目は、ただ見るためだけにあるのではないと思う。
ちゃんと見極めて、考え行動するためにある。

私の聞こえる耳は、ただ雑音を聞き取るためのものではない。
人の意見を聴いて考えるためにある。

私の頭は、ただ自分のことだけを考えるためのものではない。
他人のことも考えられるようにできている。

私の手足は、私が動くためだけにあるのではない。
世のため人のために動くためにあるのだ。