「季節感のある子に育ってほしい」
母は私を産んだとき、そう願いを込めたそうだ。
日本には四季があり、世界から見ればそれは当たり前のことではない。
季節感のある子って、どういう意味なんだろう。この話を聞いた時、私はいまいちピンと来ていなかった。ピンと来ないまま、時間だけが過ぎていった。
周りと同じことを嫌う私。友人からの一言で「見え方」に気づいた
もともと私は、周りと同じは嫌だと思う性格だった。
右と言われたら、それこそ左と言ってしまうような可愛げのない子どもだったと思う。
せっかく伸ばした髪も、ばっさりとベリーショートにしてみたり、真緑のコートをたなびかせて学校に通ったり。
大勢の一人ではなく、私として見られたかった。ここにいる、という自分自身の証明だったのかもしれない。
そんな風に過ごしていたある日、友人に「初めはちょっと話しかけづらかった」と告げられた。それもそのはずだ、私自身がそう仕向けていたのだから。分かっていたはずなのに、なんだかとても悲しかった。
それと同時に、なぜかあの母の言葉を思い出していた。季節感のある子、その意味を再び、静かに考えた。
母が願った「季節感のある子」とは。自分の見せ方を深く考えてみた
春になり、ピンクが街を包むとなんだか嬉しい気持ちになる。体をまとう空気の温かさを感じ、大きく深呼吸をしてみる。髪をなびかせる優しい風を捉えて、別れたあの人を思い出し、ふと寂しい気持ちになったりもする。季節を何度もめぐる中で、思い出だけが少しずつ積もっていく。私はふと、季節感というのはその時々に感じることのできる情緒のように思った。
季節ごとに感じられる情緒を、大切にできますように。母は生まれたばかりの私にそう願いを込めたのではないかと、ふと思ったのである。
私は、そういう些細な感情を大切に生きていただろうか。自分は他者とは違う、そう思うばかりに春のうららかさに目を、耳を傾けられていただろうか。花に喜びを寄せる人々の声をよそに、見向きもせず速足で駆け抜ける自分に気が付いたのだ。
そうして私は、自分の見せ方についてもう一度深く考えてみた。
かつての自分から得た教訓。等身大の自分を魅せていく方法
見せ方、というよりも魅せ方。自分は数多いる人々の一人にすぎない。だからこそ、等身大で良い。背伸びをせず、そのままで、ありのままの姿で。憧れや尊敬、思いは人を強くするが、それは時に怪物のようなものでもある。気持ちだけが膨らみ、やがて暴走する。自分さえも置いてけぼりにしてしまう。どうしたらよいかわからなくなった時、ふとそばにいる何でもない人。
でも、この人になら話してみても良いかも、なんて思える人。私はそう見られたいと今は思う。誰かの憧れになるより、誰かのおつまみ。お酒を嗜むときの、ちょっとしたアクセント。でも、ないとちょっと寂しい存在に。
かつての自分から得た教訓。それはこれからの自分を照らす道しるべとなった。どの季節も、いっぱい吸い込んで味わう。ただそれだけで、自分をもっと素敵に魅せることが出来ると信じて。