人は無意識のうちに、それも当たり前のごとく自分を使い分けている

人は、無意識のうちに自分を使い分けていると思う。
学校にいるとき、仕事をしているとき、家族や友達と一緒にいるとき... 。多くの人は、その場面に合った自分の出し方をしていると思う。

例えば、初対面の人の前だと相手に気を遣ったり、よく思われようと普段の自分ではない偽った自分を演じてしまう事がある。また、家族や友達と一緒にいる時は、自分を飾らずラフに自分を出す事ができる。そうやって、日々場面に合わせて自分を使い分けている。
けど、それをするようになったのはいつからだろう?

教えられたわけでもなく、無意識にしているこの行動。世間一般で考えてみると、このような行動は疑問を持つはずがない当たり前の事なんだと気付いた。それぐらい、私達は無意識にしている事なんだなと思った。

特に日本人は、礼儀やマナーなどを小さい頃から教えられ、自分の「見せ方・見られ方」を大切にしてきている国だと思う。特に、芸能人やスポーツ選手などの影響力のある人達は、私達一般人のお手本のような存在にならなければいけない。というプレッシャーを感じている部分はあると思う。

相手に対して「理想像」を勝手に立てる人は多く、私にも経験がある

不祥事を起こせばすぐにネットに書かれたり、SNSで色々言われたりと、良い事も悪い事もあっという間に広まっていってしまう。その事を恐れ、本当の自分を出せずに、世間とのイメージのギャップに悩まされている方々もきっといるんだろうなと思う。

だが人は、相手に対して知らぬ間に理想像を立ててしまっている。そんな事はないと思っていても、些細な事でも人から裏切られた経験があるといった人は、すでに相手に対して理想像を立てた事のある1人だ。

「この人は真面目で良い人だから、絶対変なマネはするはずがない」
そういった相手に対しての勝手な思い込みをしてしまうと、少し問題を起こしてしまうだけでも印象が悪く見えてしまう。
でもそれは、自分が相手に対して「この人は完璧な人なんだ」というレッテルを貼っていただけであり、決して裏切ったわけではなく、その瞬間に相手の見えなかった部分が見えたというだけである。

私も、似たような経験をした事がある。
中学から高校までで、たまたま同じ学校だった同級生の子がいる。高校三年生になるまで、一度も同じクラスになった事がなかった。なのでこれといった接点もなく、会話も一、二度くらいしか交わした事がなかった。
私のその子に対してのイメージとしては、“大人しくて控えめな子”という印象だった。そして高校三年生になり、初めて同じクラスになった。中学から一応同じ学校ではあったので、なんとなく相手の事を知っているつもりでいた。

知っているつもりでいた「控えめな彼女」は、明るくて面白かった

そしてある日、私が通っていた自動車教習所でたまたまその子を見かけた。次の日学校で聞いてみると、昨日から通う事になったらしい。そして同じ教習所という共通点ができた事で話す機会も増え、次第に私達は仲良くなっていった。

また、偶然にもお互いの家が徒歩5分圏内の場所にある事を知り、休みの日や学校帰りに近くの公園で他愛もない話をしたり、中学からの空いた数年間を埋めるように、たった一年でとても仲良くなっていた。

高校を卒業した今でも、頻繁に連絡を取ったり、今だに遊びに行ったりするほどの仲だ。
私は、その子の見えなかった部分が見えた時、この子はこんなにも明るくて面白い子だったんだと気付いた。あの頃は、自分の中でその子のイメージがあって、なんとなく分かっていたつもりでいたけど、接してみて見え方が180度変わった。私自身もその子に対して、“大人しくて控えめな子”というレッテルを貼っていただけであった。

その子自身は、別に変わってはいない。ただそれを受け取る側は、そのイメージだけで決めつけてはいけないんだと実感した。
この事をきっかけに、私は人に対してのイメージをつけないようにしている。皆、場面に合わせて無意識のうちに自分を使い分けている為、必ずしも、その時がその人の全てを表しているわけではないと思っている。
その人の本当の姿が見えた時、これも全て含めてこの人なんだと、受け入れる事のできる大きな器を私は持ちたい。