小学校6年生のときの通知表の担任からの一言を、今でも強く覚えている。
「態度を使い分けられていてよいです」
この一言を読んだとき、とっさに怒られる!と思った。私はクラスの女子の群雄割拠の派閥争いのなか、誰の側にもつかないが、みんなと仲良くする嫌なやつだったからだ。
だけれども、家では無邪気なかわいい娘だった。いや、かわいい娘であろうとしていたというべきか。受験戦争の最中の兄、それに伴う父母の喧嘩を見て、私は何も考えていないのんきな幼い姿を演じ、小学6年生なりによりよい雰囲気を作ろうとしていたのだ。
だが、それも今日までだ。この通知表によって私が本当は計算ずくで幼く見せようとしていることがばれてしまう。
おそるおそる通知表を見せると、母は「あら!よかったね!褒められてる」と言った。
なんだか拍子抜けしつつ、ほっとした。
10年経った今も、態度を使い分け、全員と仲良くする八方美人な私
あれから10年以上経った今も、あの通知表の言葉が頭の中にある。
私は社会人となり、派閥争いの激しい職場にいる。相変わらず、ひとつの派閥に偏らずに態度を使い分け、全員と仲良くしている。
みんなのことがちょっとずつ好きでちょっとずつ嫌いだ。
こんなふうなので、好意的な人からは人当たりが良いねと言われるが、そうでない人からは、もしかしたら八方美人だと揶揄されているのかもしれない。
見られ方はさておき、私の本心はといえばシンプルである。
とにかく生まれた星の名の天秤座の通り、中立で平等に誰の意見にも染まらず、凝り固まった考えをもちたくないのだ。人の悪口は言いたくない。誰とも話したくないときもあれば、心からみんなと仲良くしたいときもある。
だが人の目は異常に気になる。罪悪感を感じつつ出来上がるのが、この態度の使い分けなのだろう。
素直にすべてを言えば、全人類を愛し、全人類に愛されたい。好きと言ったら好きと返してほしいし、ありのままの自分を愛してほしい。そう思っているが、今日も今日とて、せめて嫌われぬように、うわごとのようによくわからないまま「すみません」と適当な褒め言葉を手当たり次第、口から発する日々だ。
口に出さないだけで、みんなそう。同僚の肯定に罪の意識が消えた
そんな私を変えるひとつのできことがあった。素晴らしい同僚に巡り会えたのだ。
ひとつ歳上の天真爛漫な女性である。誰も聞いていない恋愛話を初対面からする、突飛な人だ。突飛だが、真っ直ぐに堂々と自分を見せていた。
私は彼女のことが大好きになった。普段は真面目に業務をこなしつつも、帰り道は楽しく、言いたいことを言って彼女と軽口をたたき合った。
あるいつもの帰り道、だがその日、私は最早何度目かもわからぬほどの派閥争いに巻き込まれていた。一生懸命どちらの話にも合わせていたが、私の人事にも関わることであり八方美人にも限界がきていた。
私は「あの人の好きなところもあるけれど、好きじゃないところもあって…」とつい本音を漏らした。
「そんなの、みんなそう」彼女は響く声で言った。
「みんな、誰に対してもそう思ってる、ただ口に出さないだけで。そしてそれは別に悪いことじゃないし。」
ほんとうに心の底から驚いた。みんな、みんな「態度の使い分け」を内に抱えていたの?
そう思っていても許されるの? 彼女は続けた。
「私はうみちゃんらしく、本音をいう姿が好き」
彼女の響く声が、頭の片隅に棲みついていた担任の一言をかき消した。
相変わらずみんなのことがちょっとずつ嫌いでちょっとずつ好きだけど
いま、私の見せ方と見せられ方は全く一緒である。八方美人な自分を謳歌している。
気ままに好きな人に好きなように話しかけ、話しかけたくないときは話しかけない。派閥にも入らない中立。気分によって完全に態度を使い分けている。
みんなのこともちょっとずつ嫌いでちょっとずつ好きだ。みんなに愛してほしいが、じれったくてもう待ってられないので先にどんどん愛する。
唯一変わったのは人の目を気にしすぎなくなったことだ。
見せ方と見られ方の境目。そこはきっと紙一重の世界なのではないだろうか。どんなふうに自分を見せようとしても本質を見抜いてくる人もいれば、見せたいように見てくれる人も、見せたくないように見てくる人もいる。
結局は、自分がいちばん心地よい形で、自分のしたいようにすればいい。
私はそう思う。
きっと通知表の一言を見る前から母も私の演技に気づいていたのだ。いろんなことを汲んだうえでの「よかったね」だったのだろう。
私は私らしく、これからも八方美人に、態度を使い分けていく。
これが私の見せ方、見られ方である。