「やさしいねぇ」
小さい頃から、まわりにこう言われて育った私にとって、「やさしい」という言葉は褒め言葉であり、呪縛でもあったように思います。

いつからかはわからないけれど、勝手に「やさしい」と「いい子」は1セットだと感じていて。この2つの要素さえ揃っていれば、嫌われない!なんて考えもあったせいか、人と接するとき、私は常にまわりの人にとって「やさしい、いい子」でいなければならない、と自分を縛り付けていました。

他人から嫌われることを極度に恐れていた、私。
「やさしくて、いい子」で見られたいから、何でも人に合わせることが多くなり、遠慮がちなワタシが日常に増えていく。本音を言えない、偽りのジブン。他人に嫌われたくない。でも、他人に媚びて自分らしくいられないジブンが、嫌い。
そんな葛藤だらけの学生生活をおくってきました。

「席を譲る」行為は、「やさしい、いい子」に見られるための常套手段

先日、就職活動を終えた帰り道。くたくたの身体でバスに揺られていたとき、おばあちゃんがひとり、たくさんの荷物を抱えて乗ってきたんです。その時、考えるより先に、すっと身体が動いて、荷物をさっと手にとっておばあちゃんに席を譲りました。お礼を言われ、ぺこりと頭をさげあった後、ハッとしました。

あれ、今わたし、「やさしくて、いい子」でいなきゃって思わなかったな、と。

私にとって、「席を譲る」行為は、人から「やさしい、いい子」として見られるための常套手段でした(なんという偽善者!と今あらためて思う)。
一方で、思春期真っ只中の頃なんかは、友達といるときにお年寄りに席を譲ると「いい子ぶりっ子」だと思われちゃう、とか考えていた時期も、ありました。
そんな過去があるからこそ、人にこう見せたい、こう思われたいという感情なく、ただ、純粋に思いやりの気持ちだけでうごいた自分にとても驚いたんです。

今のわたしは、偽りなくありのまま、素の自分で生きている

いつの間にか、私を縛っていたものはすっかり消えてなくなっていました。気づいたら、庭のたんぽぽの綿毛がほとんど残らず飛んでいっちゃってたみたいな、そんな感覚。

呪いを解いてくれたものはなんなのか。ひとつ、これが大切なんじゃないかな、と思うことは、「今のわたしは、ちゃんと自分のことを好きだ」ということです。

あのときの
あの苦しみも
あのときの
あの悲しみも
みんな肥料になったんだなあ
じぶんが自分になるための

相田みつをさんのこの詩が、ふわっと頭に浮かびました。過去のジブンと今の自分の大きなちがい。それは、今のわたしは、偽りなくありのまま、素の自分で生きているということです。そして、わたしの中のこの大きな変化には、これまでの経験ひとつひとつが少しずつ関係していると思うのです。

大学生になって、自己嫌悪まみれな日々を送って、泣きながら考えた

人に嫌われないために心がけたことで生まれた、控えめでおとなしく、「やさしくて、いい子」のジブンは、本当にみんなから好かれたか?
答えは、いいえ。
大学生になって、まったく新しい環境下で、これまで築いてきたジブンが初めてはね除けられた衝撃の出来事がありました。そのときはもう、苦しくて、涙が止まらなくなりました。
まわりを気にしすぎて本当の自分を見失い、自己嫌悪まみれな日々を送っていた中での、拒絶。お先真っ暗とはまさにこういうときに使うんだろう、と泣きながら考えたものです。

でも、この苦しみは、重要なことに気づくきっかけをくれました。「まわりの目を気にしない、ありのままの自分」を、まっすぐ見て、すべて受け入れてくれる人の存在。ずっとそばにいてくれていたのに、すっぽり頭から抜け落ちていた、家族と親友の存在です。

本当のわたしは、

ちょっとわがままで、
素直すぎるくらい素直で、
雲ひとつない青空がすこし苦手で、
“超”がつくほど涙もろくて、
すごく子どもっぽい。

そんな「わたし」を、まるごと全部包みこんで、ぎゅっと愛してくれる人がいる。

頭をスパーン!とハリセンで叩かれたような気分でした。なんでこんなに簡単なことに気づかなかったのだろう、と。

なにに怯えていたのだろう、わたしは。私のほんの一部しか見ていない人にどう思われたって、痛くもかゆくもないじゃない。だって、わたしの嫌なところもみんな知っていて、その上で好きだと伝えてくれる人がいるのだから。

いつのまにか、人からの見られ方は気にならなくなっていました

理解者の存在に気づけたことで、わたしは「わたし」を生きていく自信がついたように思います。

もしも、ありのままの自分で生きてゆく中で

自己中心的だね
空気読めない子なんだね
変わってるね
すぐ泣く、泣き虫だね
この年なのに、ガキすぎでしょ

と見られたとしても、だいじょうぶ。見てくれている人は、ちゃんといる。
こう思えるようになってから、いつのまにか、人からの見られ方は気にならなくなっていました。そして、「わたし」をちゃんと見ようとしてくれるまわりの人たちとの時間を大切にしていく中で、ゆっくりと、自分を好きになっていきました。

散歩中に見かけた、街路樹の根元にポツンと咲く一輪のタンポポ。春の麗らかな日差しに照らされて、私には、パッと広がった鮮やかな黄色がきらきら光って見えました。
でもきっと、まわりには足下を見て歩かない人だっているし、視界にはいったとしても「あ、タンポポ。」くらいにしか思わない人だっている。懸命に生きていても、見てくれない人はいます。
でも、見てくれる人は必ずいる。だから、見てくれる人、あたたかく見守ってくれる人に向けて堂々と咲いていればいい。

堂々と、生きていればいい。