「こないだあの子、彼氏と遊んでたじゃん。旅行してたよね」。なんでそんなこと覚えてるの。知らないし、たとえ投稿を見てたとしても覚えてないよ。
わたしたちとSNSの繋がりは、まるで流れ続ける血管のようだ。1人1人が何本か持っている数本の毛細血管を、複数のSNSが動脈として束ねていく。
SNSは流すのも受け取るのも「自由」なのに、強制してくる人がいる
そんな時代に生まれてしまったわたしたちは、SNSによって相手の動きがつぶさにわかるようになった。自分が今何をしているかをすぐに多くの人に伝えることができて、多くの人が何をしているかが手にとるようにわかってしまう。血管と明確に違うところは、その血を流すかどうか、受け取るかどうかということを選べることだけだ。
わたしは、この様々な人と繋がっている動脈を弄ることがとても苦手だった。仲良しの友達でも、LINEを1週間くらい放置することもあるし、Instagramのストーリーなんてフォローしている友達を全員分見切ったことが一度もない。
投稿は見るには見るが、「いいね」はまちまちで、あまり見ていないけどとりあえずダブルタップしてみることもある。そんなわたしのことを理解してくれる友達はもちろんいるし、同じように必要なときだけ連絡を取るタイプの友達もいる。でも、理解してくれない人も、わかりあえない人も、いる。
忙しくて、スマートフォンに手が向かないとき「なんで今日LINE返してくれないの?」「ストーリー見てよw」と送ってくる人もいる。流すのも、受け取るのも自由なはずの血管なのに、どうもそれを強制してくる人がいる。わたしは、それがものすごく嫌だった。自分だけの時間を邪魔されているような気分になるからだ。
わたしは常に監視されているの? 常に誰かと繋がっていなければいけないの? まるでトゥルーマンショーの主人公になってしまったみたいで、恐ろしくなる。
わたしは、目の前のコミュニケーションや空間に勝るものはないと思う
友達と遊んでいるとき。友達がふと、スマートフォンを触り始めた。何か大事な用事でもあるのかなと思ったら、わたしではない人に、他愛もないメッセージを送り返していた。わたしは、それがとてつもなく嫌だった。
目の前にコミュニケーションを直接取れる人が、血管ではなく空気で繋がっている人がいるにも関わらず、血管とのコミュニケーションを優先させてしまうんだ……。わたしは光る画面に負けた気がして、悲しくなる。
きっと、わたしが友達のことを理解できないのと同じ様に、友達もわたしのことを到底理解できないのかもしれない。“多様性”という言葉があるが、どちらかが完全に悪いなんてことは絶対に無いとは思うし、それぞれの考えを否定することはできない。
でも、わたしはどうしても、目の前のコミュニケーションや空間に勝るものはないと思う。目の前にいるからこそ感じることができる言葉以外の特別なコミュニケーション、共有する時間、1人で過ごす空間は、身体の内部に存在して、一方通行に流れ続ける血管では絶対に味わえないものだからだ。
相手のことを知らないままでいることは、交流を深めることに繋がる
すぐに相手のことを知ることができる現代において、相手についてSNSでより理解を深めることは、さらに交流を深めるための一助になると思う。しかし、この世の中で相手のことを知らないままでいることは、さらに交流を深めることに繋がるのではないか。
自分と繋がっていない間に何をしたか、何を思ったか考えたかを、直接コミュニケーションを取ったときに知る。常に繋がっていて、その時の自分を実況中継するよりも、1人の時間を大切に確保して得られた経験や感情の方が、遥かに“その人”が現れるのではないか。
「誰かと繋がり続けていないなんて、昔の話。今はもう古い」と言われても仕方がない時代になってしまっているのかもしれない。それでもわたしは、自分だけの空間を大切にして、血管ではなく、目の前の相手を大切にしたコミュニケーションを取っていきたい。