私は自己表現がとにかく苦手だ。
特に集団の中となると、頭が真っ白になり、何も言葉が出てこなくなる。
さっきまで考えていたことも、うまく口にすることができない。
言いたいことを伝えるのがとにかく苦手だ。
こんな私ではありますが、勇気を持って、大学生活の間、疑問に思ったこと、考えたことをエッセイにして綴ってみようと思います。

”いいひと”と呼ばれる私。自分の意見を主張できないだけなのでは?

“いいひと”とはどんな人のことを指すのだろうか。

誰に対しても優しい人のことを指すのだろうか。いつもポジティブで周りを笑顔にする人のことを指すのだろうか。それとも、なんでも人の言うことを聞いてくれる都合の”いいひと”を指すのだろうか。

私は友人から「いい子だね」と言ってもらえることが多かった。具体的には、「〇〇ちゃん(自分)は誰に対しても優しくていい子だよね」「〇〇ちゃんは何でもいいよって言ってくれるからいい子だよね」など。しかし、自分が、本当に”いいひと”なのか、25年生きてきた今でも解らない。

大学生の間、集団の中や、少し苦手な人に対して、その場をうまくやり過ごすことに必死で、どんな意見に対しても「大丈夫だよ」と返事をするようになっていた。
そうしていると、誰も私のことを悪くは言わない。
むしろ、”いいひと”だと褒めてくれる。

しかし、3年ほど前だろうか。
大学4年の時、この”いいひと”と自分が言われることに疑問を抱くようになる。

私はただ自己表現が苦手なだけで、自分の意見を主張できないから、周りから”いいひと”だと思われているだけなのではないか。
みんなにとって、私はただの都合の”いいひと”なのではないか。
私だって、色々考えていることがあるのに…自分の意見を何も言えず、家に帰ってから、悔しくて涙することもよくあった。

誰に対しても、”いいひと”である必要はないんだと思うようになった

しばらくすると、私は心を閉ざしてしまい、誰とも関わりたくない、人の話を聞きたくない思うようになった。
まるで、ノイズキャンセルのイヤフォンをつけているかのように。

そんな私の元に、ある日、救いの手が差し伸べられる。
「いつも、人に対して大丈夫って言葉をよく使っているけど、その大丈夫って大丈夫じゃないでしょ?」
こんな風に声をかけてくれた人がいた。
その一言で、ノイズキャンセルのイヤフォンは外れ、閉ざされていた心のドアが開いた。

そうだ、今までの私は、人の前で自己表現することができないから、「大丈夫」という言葉で、いつもその場をやり過ごそうとしていたんだ。
ずっと、私、無理していたんだな……。

そこから、私は無理をしないでいいんだと思うようになった。
誰に対しても、”いいひと”である必要はないんだと。

その声をかけてくれた人に対して、私は引き込まれていった。
今ではその人は、私のかけがえのない人である。

”いいひと”ってどんな人のことを指すのだろう。答えを探す旅はこれからも続く

ちょうどその頃、私と似たような悩みを持つ友人と出会った。
相手に対して「NO」を言うことができず、八方美人になってしまうという悩みを抱えていた。

彼女はどんな人に対しても、一度その人の立場に立って物事を考える。
相手がどういう立場なのか、その立場ならどういう気持ちになるのかを考える優しい心の持ち主なのだ。
ただ、この性格が裏目に出てしまい、八方美人だと周りの人から評価されてしまうそうだ。

私は彼女のこの性格に惹かれた。仲良くなりたいと思い、思い切って「仲良くなってほしい」と声をかけてみた。

勇気を出して声をかけてみてよかった。
悩みを分かち合うことができ、彼女の前では自然な私でいられる。
大丈夫じゃない大丈夫を言わないでいられる。
とても居心地がよい。
素直に笑顔でいられる。
今では彼女とは大親友だ。

“いいひと”と呼ばれ続け、悩みもたくさん抱えたが、悩みを持ったことで、今のパートナーと大親友に出会えた。

題材に戻るが、”いいひと”ってどんな人のことを指すのだろうか。
それはまだわからないが、ただ一つ、誰かの都合の”いいひと”にはなってはならないことは大学生活で学んだことである。

“いいひと”の答えを探す旅はこれからも続く。