「いつまでパパって呼ぶんかなぁ。もう高校生だよ」
高校に入学した頃だったか。父が頻繁にこんなことを言うようになった。

私は何の違和感もなくパパ、ママ呼びを続けていた。もちろん友達や先生には「父・母」や「お父さん・お母さん」を使っていた。だが、家庭内での呼び方を気にしたことはなかった。

恥ずかしくなった私はパパママ呼びをやめた。父の方は変わらなかった

父に言われるようになって、私も呼び方が気になるようになった。このまま「パパ・ママ」で行くとどうなるのか。60歳の娘が90歳の両親に「パパ、ママ」と呼び掛けるようなことになるんじゃないか。

私は急に恥ずかしくなり、「お父さん・お母さん」を使うようにした。気をつけると、案外あっさり変えられた。そもそも、うちの両親は中身も外見も「パパ・ママ」というタイプではないのだ。母も、「お母さん」にすぐになじんだ。問題は父だった。

「パパは、こう思うんだよね…」
「パパの分はないの?」
「パパはその日仕事だからさ…」

私がお父さんと呼ぶようになっても、父の方は変わらなかった。娘に言ったことを覚えているのかいないのか、平気な顔で「パパ」と言う。

父渾身のお説教。「パパ」という言葉だけが気まずそうに漂う

ただ、父自身も何か思うところがあるのだろう。その証拠に、人前では器用に「お父さん」になる。父が「お父さん」になったり「パパ」になったりしているうちに、私は大学生になった。特に困ることもないので、呼び方について父に何か言ったことはない。

ただ、少し困る時はある。それは、お説教の時。真面目な顔で「パパの話も聞きなさい」とか言われると少し笑えてくる。もちろん笑わないように我慢する。話もきちんと聞く。

でも、自分であんなに言ったくせに…、と考えるとどうしてもおかしくなる。真面目な場で、「パパ」という言葉だけが気まずそうに漂う。父が真面目にすればするほど、「パパ」はどこか間抜けに響く。父渾身のお説教もなんだか締まらない。父がそれに気づいていないのも面白い。

母に、このことを話したことがある。すると、「お父さんなりの気遣いじゃないの」と言われた。「パパ」で重苦しい場を中和しているんじゃない、と。

確かにそうかもしれない、さすが夫婦だ、よくわかっているんだな。

私は感動したが母はすぐに言い直した。
「いや、そんなに深いこと考えるわけないか」
私の感動は儚く散った。

今でも「パパ」は健在。父にしかわからないロマンがあるのだろうか

私の大学生活も後半に入った。父の「パパ」は健在。メールの文中でも「パパ」。

「本当は、パパって呼んでほしいんじゃないの?たまには呼んであげたら」
母に言われることがある。そう…かもしれない。でも、私はもうパパと呼ばない。というより、もう呼べない。一度「お父さん」にしてしまうと、「パパ」はどうも恥ずかしい。高校生まで、平気だったのに。私も大人になったのか。

髪が薄くなり、お腹の突き出た短足オジサンが自分で「パパはねぇ」とか言う姿は見ていて楽しいものではない。

だがニコニコしている父を見ると、まあいいか、と思ってしまう。「パパ」には父にしかわからないロマンがあるのだろうか。いつまでも若く元気な「パパ」でいたいという足掻きとか、そんなものもあるのかもしれない。

「パパ」と「お父さん」。どちらも父親を表す言葉。辞書的な意味はほぼ同じ。
でも、うちの父親にとっての、この2つの言葉は似て非なるものなのだろう。