「できちゃった結婚」。
この言葉、最近は耳にする機会が少ないけれども、数年前は芸能人の結婚報道などで多用されていた気がする。でき「ちゃった」結婚。私はこの言い方があまり好きではない。それは私自身が、できちゃった結婚で生まれた命だからかもしれない。

「えー!できちゃった結婚じゃん!それいけないんだよ!」

「ママとパパはどうして結婚したの?」
恋愛というものに興味をもち始めた小学校5~6年生の頃、そんな質問を母にしたことがある。母は「ママとパパが21歳の時にあなたを妊娠して結婚したのよ。2人とも若くてお金がなかったから、ママのお父さんとお母さん、パパのお父さんとお母さんは凄く反対したの。結婚してからも大変なことばかりだったわ」と教えてくれた。後日、友人たちと遊んでいた時に両親の馴れ初めを話すことになった。私が母に教えてもらった馴れ初めを話すと、ある子がこう言った。
「えー!できちゃった結婚じゃん!それいけないんだよ!」

ん?いけない?
結婚に良い・悪いがあるのか?
私の母と父はいけないことをしたのか?
私はいけないことをして生まれた子なのか?
無知な子どもだった私は少し混乱した。そして同時に、母に結婚や妊娠のことを聞くのはご法度なんだと感じるようになり、この話題を遠ざけるようになった。

喧嘩のときに言ってしまった「仕方なく産んだんでしょ!?」

それから月日が経ち、中学校で保健体育を受けると、両親が本当にできちゃった結婚なのか、自分で確認したくなった。両親が付き合い始めた月、結婚した日、私が生まれた日等を鑑みて逆算してみると、正真正銘、できちゃった結婚だった。

その瞬間、母がお腹を痛めて産んでたくさん愛情を注いでくれたと分かっていても、父が朝から深夜まで働いて家計を支えてくれたと理解していても、妊娠してから結婚をした2人にどうしようもない嫌悪感と怒りと悲しみを覚えてしまった。
中学生という多感な時期で性に興味関心がある一方、性行為は不浄なものという印象があった当時の私は、幼稚な思考回路で両親を批判することしかできなかった。そしてある日、母と喧嘩をしたときに言ってしまったのだ。
「できちゃった結婚で仕方なく私のこと産んだんでしょ!?家は貧乏だし、産まれてこなきゃよかった!」

母を傷つけるには十分すぎる鋭いナイフのような言葉。母は私の言葉を聞いて怒りはしなかった。ただ、その場を離れてトイレに籠り、声を押し殺して泣いていた。私が見た初めての母の涙は、とてつもなく悲しいものだった。
愚かな私も、この時ばかりは自分がとんでもないことをしてしまったのだと理解し、わんわん泣きながら謝った。母はそんな私を見て、また泣いていた。

少し窮屈な母の膝の上で知った、私たち家族はずっと愛に溢れていること

その後母は、中学生の私を幼子のように膝の上にのせて、私が聞くことをためらっていた妊娠・結婚のいきさつ等を教えてくれた。
俗に言うできちゃった結婚に分類される結婚だが、お互い愛していたから結婚したこと。元々子どもを欲しいと思っていて私を授かった時は本当に嬉しかったこと。それでも両親からは許しを得られず、金銭面で苦しくても誰も頼れず若い2人でなんとか乗り切ってきたこと。ゆえに子どもの私に寂しい思いや惨めな思いをさせて申し訳ないと思っていたこと。そう話す母の膝の上は少し窮屈だったけど、昔と変わらず心地よかった。

私は、母が私を産んだ歳を超えてから、妊娠して結婚を決意した母と父の偉大さを改めて感じている。そして同時に「○○婚」といった結婚の名称なんて意味を持たないもので、結婚の当事者たち以外がとやかく言うようなことではないと思うようになった。

世間から見ればできちゃった結婚で生まれた子どもだが、私は間違いなく愛されてきた。両親の結婚のいきさつなんてどうでもいい。今ここに、愛されて幸せを感じている私がいるのだから。