あの子がいたから、今の私がいる。仰々しいけれど、これは本当のこと。
もしもあの子がいなかったら、今も家から出るなんて考えられなくて、毎日泣いていたはず。でも、私には、家族の雑種犬のトムがいた。少しだけ、あの子の、トムの話をしようと思う。
学校に行きたくないと泣いていた私。トムが私の心を温めてくれた
朝になると、私は庭の隅っこで学校に行きたくないといつも泣いていた。そんな時トムは、何食わぬ顔をして、ふわふわなお尻をぴたりとくっつけて座ってくれる。
たったそれだけ。だけど、私はこの温かさを知らない人生でなくて、良かったと心底思う。たくさんの言葉よりもたった1つのその行動が、私の心を何よりも温めてくれたのだから。
私が引きこもってしまった時には、よく母が部屋にトムを連れて来ていた。
なぜなら、トムは私の部屋で暴れまわって、満足したら出て行く。そうして私がその後ろを追いかけて部屋を出てくるから。
もともと外犬だったので、トムからしてみれば、家の中に入れることが楽しかっただけで、私が心配なんていう素敵なお話は全くないと思う。だけど、そのお迎えのようなものは、いとも簡単に私を外へ連れ出していた。
トムとの思い出は、語りきれなくて、ふっと記憶を探ると、あれもこれもと花が咲いてしまう。ごく普通の日常も一緒だったから、全部特別になった。
引きこもりの私。トムがいたから外に出て、広い場所へ目を向けられた
そのうち、そんな日々を残すために、以前から興味があったカメラを始めてみた。その頃には、部屋に引きこもる時間も少なくなり、外に出て人と会話できるようになっていた。カメラを始めてからは、トムを世界で一番撮影した。それが楽しくて、その後の自分の方向を決めるきっかけにもなった。
だから、高校卒業後にカメラを学ぶために家を出ると決めた時は、トムと離れ離れになることが本当に心細かった。今思い返してみても、引きこもりの私なりによく決心したなぁと感心する。
当時は、周りの人に引きこもりはすぐ出戻ってくる等と笑われていたけれど、8年後の今もしっかり出戻っていない。トムがいたから、外に出て、人と会い、写真を始め、もっと広い場所へ目を向けられたのだ。
その後も時々実家に帰っては、一緒に遊んだ。むしろ、トムに会うために飛行機に乗り、おやつをたくさん抱えて、帰っていた。刻々といろいろなものが変わっていっても、変わらない天真爛漫な姿には、会う度に元気付けられた。
何度泣いてもきっと進み続ける。いっぱいありがとうと大好きを込めて
それなのに、犬の人生は人の何倍も早く、あっという間に過ぎていってしまった。大切なものを失うことがこんなに悲しいなんて、想像なんかできなかった。悲しくて、寂しくて、辛くて、この先を生きていけるか分からなくなるくらいに泣きじゃくった。
ただ、このまま押し潰されたら、トムのせいになってしまうような気がしたから。どれだけ耐え難くても進んで行かなければ、と自分に言い続けた。繰り返し、繰り返し。
今も思い出すのは、トムがくれた愛情や温もり、外に出る勇気、好きなものに触れるきっかけ、孤独知らずの日々、楽しい思い出たち。それは、長い時間とともに私の一部になり、今も深い支えになっている。
だから、この先もう会えない現実に締め付けられる時がきても、トムにもらったものたちを思い出して、何度泣いてもきっと進み続けるから。
いつかずっと後、私が会いにいったら、もう一度ふかふかな体を抱きしめさせて。いっぱいありがとうと大好きの気持ちを込めて。
トムがいたから、今の私がいる。