顔も名前も知らない誰かに、救われた事がある。
誇張でも何でもなく、その人の存在や言葉が当時の私をちゃんと生かしてくれた、そんな経験がある。

転移という言葉自体が、その先の結末を直喩しているように感じられた

18歳の時、父の病気が悪化した。
14歳の時からずっと病気がちで治療を続けていたけれど、私が大学1年生になった時、他の場所にも病気が転移している事が分かった。
転移という言葉は、24時間テレビやNHKのドキュメンタリーでしか聞いた事がないし、その後の展開は、殆ど読めてしまうのではないだろうか。
当時の私にとっては、転移という言葉自体がその先の結末を直喩しているようにしか感じられなかった。

家族の病気や問題について、周りに伝える事は簡単ではない。
その友達を大切に思っているからこそ心配を掛けたくないし、言語化する事が怖くて、本能的に拒否していたのかもしれない。

そんな時、当時好きだった韓国アイドルの情報を得るために作った、Twitterのアカウントで出会ったとある女性とDMをしていた。
始めはお互いの好きな曲や、アイドルが出る音楽番組の情報について、そして、いつのまにかタメ口でお互いの身の上話をするようになっていた。
タメ口で話そう!と少しだけ距離が近くなった2日後、私は大阪市内にある、大きな大学病院の外科外来の待合室に座っていて、母が会計を済ませるのを待っていた。

その数分前に、父の主治医から病気の悪化を告げられていた。

頭が真っ白になっていた時、何故か無意識にTwitterを開いた

ハイデガーが、「死を意識した瞬間、生が輝いて見える」というようなことを言ったと本で読んだ記憶があるけれど、私が一番そう感じたのは、紛れもなく宣告を受けたあの瞬間で。
むしろ淡々としている母を横目に、24時間テレビのドキュメンタリーのような結末が頭の中で駆け巡っていた。
立たないといけないのに、神経が切れたように足に力が入らない。
文字通り頭が真っ白になっていた時、本当に何故か無意識にTwitterを開いて「すっごい悲しい事があった涙」と彼女にDMを送っていた。

すぐに返信が来て、「大丈夫!?推し補給して元気出して!」というメッセージと共に、ものすごい速度で10個程のyoutubeの動画のリンクが送られてきた。
それは、私たちが当時押していたアイドルの可愛らしい日本語まとめや、堪らなくカッコイイ雑誌の撮影ビハインド、ひたすらラーメンとアイスを食べ続ける動画達で。
そのあまりの温度差と彼女の勢いに、私はしっかりフっと笑ってしまった。
「もうめちゃくちゃ元気出た(笑)」とそう返信をして、私はしっかりと、足に力を入れた。

ピンと張りつめていた緊張の糸をプツンと切ってくれた彼女(と当時の推し)がいなければ、私は、あのまま椅子から立てなかったと思うし、少なくともかなりの時間、ぼんやりした日々を送っていたと思う。

父が病院から帰ると、ほんの一瞬だけあの子を思い出す

一番危ない場所に病気が転移した父は、あれから5年後、色々な大変な治療や薬と向き合いながら、今でもしっかり生きている。
やっぱり働きたいと言って、時短で仕事にも復帰した。

私を救ってくれた彼女とは、いつの間にか連絡が途絶え、アイコンが青ベースだった事は薄っすら覚えているけれど、名前が何だったかも忘れてしまった。
私の髪の毛はすっかり長くなり、今は東京で一人暮らしをしている。
何もかもが5年前と違う私は、2年ほど前からTwitterで小説を書き始めた。
今は仕事が忙しくて殆ど更新できていないが、1年半前に書いた小説を読んで今でもDMを送って下さる方がいる。
「受験本番前に読んでリラックスしていました」
「○○というテーマで書いてくれませんか?」
「何度も読みかえしています!」
ド素人には恐れ多くもそんな言葉を頂く度に、私は5年前の私を思い出す。

顔も名前も知らない「あの子」が私を救ってくれたように、私も顔も名前も知らない誰かを救えるのかもしれない。
そこにはきっと特別な才能や力なんていらなくて、ただのアイドルオタクの興奮したつぶやきや、拙い日本語で書かれた小説の1文が、誰かの力や慰めになるのだ。

父が病院から疲れた顔をして帰ってくるたびに、もう二度と出会う事のできない、BIGBANGが大好きだった「あの子」の事を一瞬だけ思い出して、そして私は笑って「おかえり」と言える。

一生懸命生きていたら、私の知らないところで私も誰かのそんな存在になれるかもしれない。
そう思いながら過ごす日々は、きっと1日だって無駄じゃないと思うから。