朝起きて、顔を洗うのに洗面所に向かう。
私が鏡の前に立って映った人は、私ではない。私ではない、誰かの姿。自己否定ではなく、純粋に、この顔は私のものではないと思うのだ。ただただ鏡に張り付いた違和感。私は21年間、それを拭えないでいる。

心と身体がばらばらな感覚を解決するため、やれることは全てやった

心と身体がばらばらなこの感覚は、一体誰に言えば理解してもらえるのだろうか。いや、理解よりも先に解決したい。

そう、やれることは大体やった。メイク、マッサージ、ダイエット(細くなっても顔が変わらないのには絶望した)。

1番効果があったのは、人間の意識90%を占める潜在意識を使った方法だ。「私は可愛い」とひたすら言う。いわゆるアファーメーションという方法。これは少し効果が出た。が、鏡を見て「可愛い」と言う度、なぜだか胸がもやもやする感覚になってきてやめた。

ふと漏らした「可愛くなりたい」に彼氏は「可愛いよ」と言った。私が欲しい可愛いとはすぐに違う意味だと気がついた。彼が言った可愛いは、存在が可愛いよと言う意味で、顔の話ではない。彼が歌番組に出ていた女性アイドルグループを見る目ではない。

存在を可愛い、愛おしいと言ってくれるのはありがたいことかも知れない。でも、私が欲しいのは可愛い顔である。私が本当に欲しいものとは違う。

努力をして手に入れた理想の体型。顔だけは結果が出なくて…

私はこれまで、欲しいものを手に入れるために努力してきた。おかげで自分の理想だった体型になることができた。でも、顔だけ未だに結果があまり出ずにいる。私はそれが悲しい。
やはり顔は産まれた時のものを生かすしかないのだろうか?認めたくない。いや、私は断固認めない。

顔が可愛くなって世間に認められたいのか、ちやほやされたいのか、と聞かれればそうではないと答えるだろう。それはもちろん本心だ。

ただ、鏡を見た時に、可愛い自分がいたら幸せだろうな、すごく素敵な気分だろうな、と思うだけなのだ。そんな自分になれたら毎日楽しいだろう、ハッピーな気分だろう。そう思うばかりだ。

さて、人間の欲望、願望の根本は「もっと自分を好きになるため」だという話を聞いたことがある。どこで聞いたかというと、前記したアファーメーションを勧めるサイトでだ。こんなに可愛くなりたいと思う私は自分が嫌いなのか。そう悩んだ時期もあった。たしかに可愛くない自分を責めていた時期もあったけれど、一つ気が付いた事がある。

自分を愛してるのか?の問いに「愛せるのは自分だけ」と答えを出す

私は自分が大好きで大切。自分という存在に誇りを持っている。
嫌いだったらわざわざ自分のために可愛くなる努力をしないと思う。
大好きだからこそ、もっと自分を好きになるために可愛い顔が必要なのだ。そう、私は自分が大好きだ。

けれども、自分を大好きではあるけれど、愛しているのか?そう自分に問いかけると少し首をかしげる自分がいた。

そもそも愛とは。自分が思う愛とは、そのままで完璧!どんな自分もオールオッケー!というもの。きっと、神さまは私を作った時、こんな気持ちだったんだろうな、愛しくて愛しくて仕方なかったのだろうな、というやつだ。それが私の思う愛である。

それを私は私自身に感じているのか。私は自分を愛したいと思う。するとどこからともなく頭の中の声が言う。いやいや、あなたは神さまじゃないよ。ありのままで完璧だなんて、そんなの出来っこないよ。

だけど、私は分かっている。神さまが世界を作ったなら、私も神さまの一部。私は自分を愛することができる。

でも、自分を100%愛することができるのは、自分だけなのかもしれない。それはどんな人だってそうだ。自分を100%、どんな時も愛せるのは自分だけ。そうだ。どんな時も私は、自分の味方であろう。顔が可愛くなりたい気持ちも、大切にしよう。

私の世界には、また夜が来て、また日が昇るよね。朝になったら顔を洗うために洗面所に向かう。
そしたら口に出して言ってみたい。「私は私を愛してるよ」って。