彼がクレジットカードを自分で支払えなくなったのは、社会人になって間もなくだった。
その日、私はいつもよりちょっといいお肉を焼いていた。お給料日だった。
美味しいものを食べて、楽しく過ごす夜のはずだった
彼と暮らす水色のアパートは、このキッチンの広さが決め手だった。
「ただいま」という彼の声はあまり弾んでいなかったけれど、深刻な何かを抱えているようでもなかった。「今日はお肉だよ!」とフライパンから視線を外さずに言う。背後の洗面台で彼が手を洗っている気配を感じながら、味付けは塩胡椒だけにしようと決めた。だって、いつもよりちょっといいお肉なのだ。
「お金、貸して欲しい」
プツン。急に世界の音が消えたみたいに、その声だけがしっかり聞こえた。ジュージューと焼けるお肉の音に紛れて消えてくれていたら、どうなっていただろう。
「何かあったの?」
「今月のクレジット代、払えなくなった」
彼は、所在なさげに縮こまっていた。
「何か買わされてしまった? 大丈夫?」
彼は、少し声を大きくして「普通に、使った。何かに巻き込まれたとかじゃ、ない」と言った。
彼は、完全に怯え切っていたと思う。私にというよりは、もっと大きなものに。とりあえず火を止めたお肉を見る。いたたまれなくてたまらなくなった。お給料日で、早く帰ってきて、なんだかいい気分で、ささやかな贅沢に手を伸ばそうとしていたところだった。
いいお肉を焼きながら、「私たちは終わりなんだ」と気付いた
私たちはもう少しキッチンの狭い部屋に引越し、彼はクレジットカードをすべて捨て、私は毎日お弁当を作ることになった。
暖かくなるころには、また2人の間に笑顔が見え始め、暑くなった頃にはほおずき市に行ったりなんかして、秋の誕生日をお互い小規模に祝い合うと、冬がきた。
私は、いつもよりちょっといいお肉を焼いていた。その日もお給料日だった。味付けは塩胡椒だけにしようと決めた。だって、いつもよりちょっといいお肉なのだ。洗面台で手を洗っている彼はいない。彼が仕事で、私が休日のお昼だった。私はもう、彼と楽しみを共有することができない。
「ねぇ、私ここを出ていくね」と言ったのは、引越しを翌日に控えた日だった。引越し先は家具家電付きのシェアハウス。ついでに転職も決まっていた。転職先は教えなかった。
彼は一瞬だけ怒って、その後すぐに、家を飛び出した。私もそのまま家を出て、カラオケボックスで一夜を過ごし、引越し業者がくるギリギリの時間に部屋に行った。
家具家電付きの部屋に引っ越すはずなのに、私の荷物はそこそこ多かった。本やイーゼル、お洋服、きっと次の部屋にはしまいきれない量の靴。私はこんなにも、この人と暮らすつもりだったんだと、段ボールを運びながら不思議だった。最後に運び出すのはドレッサーで、なんとなく口紅を塗り直した。
「年末には、プロポーズをしようとしていたのに」と彼が言った。「お別れなの?」と両肩に置かれた手を反射で振り払ってしまったことは、今でもごめんなさいと思っている。
鏡越しに見た泣いている彼の顔は、言葉の通り鏡の向こう側のどこかの世界のもののようで、自分事にできなかった。「じゃあ、引越しが済むまで、僕は外に出ているね」と言って、向こう側の世界からも出て行った彼の白いシャツが、初めてデートに誘われた時のシャツと同じものだと気づいたとき、彼の切なさの一片を、受け取ってしまった気分だった。
「多分、正しいことをした」と思ったのは初めてだった
新しい部屋に入り、荷ほどきをする。空っぽの正方形だった6畳は瞬く間にもので溢れ、学校のような共有トイレをのぞき、鮮やかな花柄のシャワーカーテンだけが浮いている洗面所を確認すると「310に入居された方?」と話しかけられた。
肩でそろえられたブロンドパーマが可愛い彼女は、自分の名前をララと言った、ように聞こえた。後から聞いたら実際にはちょっと違う名前だったけれど。
「ナイス トゥ ミーチュー!」と言って颯爽と赤い花柄のカーテンを閉けてシャワールームに消えて行った彼女を見て、ここに来てよかったと思った。
多分、正しいことをしたと、人生で初めて思った日だった。