私は今、父が大好きだ。真面目で、気弱で、生きることにちょっと不器用で。そんなかわいくて愛おしい父のことが、「人として」とても好きだ。
でもごめんなさい、実は、「父として」のあなたのことは、まだ、愛せていません。

「不器用な人」私は父にレッテルを貼り、人として好きになれた

父のことを「父として」見て、好きになったり嫌いになったりしていたのは、思えば小学校の頃までだった。その頃私はあるスポーツをしていて、父はそのチームのコーチだった。
父はいつだってよその子を褒め、私を褒めたことはなかった。練習や試合が終わって家に帰るとすぐに大好きなお酒を飲み、酔っぱらった状態で私のプレーにダメ出しをした。

そんな父が大嫌いだった。父として尊敬なんてできなかった。
ある日、私が先発出場した試合で勝利を収めたことがあった。すると、監督が父に、「今日は褒めてあげてくださいね!」と言った。私はその時初めて、父が周囲の大人から「我が子を褒められない人」として認識されていたことを知った。同時に、「なんて不器用な人なんだろう」という感情を抱いた。おそらく、小学生が親に対して抱く感情としては、適切なものではなかったと思う。

私はそれから父のことが大好きになった。父に、「不器用な人」「我が子を褒められないかわいそうな人」というレッテルを貼ることで、血のつながった「父として」ではなく、一人の人間として、「人として」好きになった。

そのあり方はどうあれ、父を好きになってからは格段に生きやすくなった。
褒められなくても、酔った状態でダメ出しをされても、名前を呼んでもらえなくても、どんなに冷たくされても、「不器用だなあ、照れ屋だなあ、かわいいなあ」としか思わずに済んで、傷つく必要がなくなったからだ。

父は私を「娘として」愛してくれている。その眼差しが苦しかった

しかし、私が父を「人として」見る、「父として」見なくなるということは同時に、私が「娘として」見られる、愛されることから降りるということを意味していた。

その頃はとにかく父を嫌いになりたくない一心で選んだ最良策だったはずの「父を人として見る」が、「娘として愛される」機会を私から奪ってしまった。あの頃、父を嫌いになりたくないと策を練った私も、ただ不器用だった父も、きっと誰も悪くない。皆、必死に生きていただけだと思う。ただ、私はどうすれば娘として愛されることから降りずに済んだのだろうと、考えない日はない。

父は今でも、私を「娘として」愛してくれている。
私が20歳の誕生日を迎えたときに見せた慈悲にあふれたあの表情は、娘を愛する父の顔以外の何物でもなかった。私はその顔を見て、泣いてしまった。

娘として愛されたい思いは、小学生の頃の私が許してくれないだろう

悔しかったからだ。そんな顔をしてくれる父のことを、今更父として愛せないことが。
娘として愛されることから降りてしまった私に、その愛を受け取る資格がないことが。
小学生の頃、その顔を見せてもらえていたら、娘として愛されることから降りずに済んだことが。

何より、小学生の頃の私が、娘として愛されることを諦めた私が、「なんで今更そんな顔するの!」とめちゃくちゃ悔しがっていて、今父を「父として」愛してしまったら、彼女に合わせる顔がないと思ってしまった。もう私は二度と、父を「父として」愛することはできないと、その時気づいた。

お父さんへ。私はあなたのことが大好きです。
でもそれは「人として」。本当は、あなたを「父として」、「父だから」好きになりたかったし、「娘として」、「娘だから」愛されたかった。
だけど、「父として」のあなたを好きになることも、愛することも、「父として」のあなたからの「娘への」愛を受け取ることも、実はもう、できそうにありません。