小さい頃は人に見られることなんて、なんともなかったのに、12歳から18歳までの6年間は人に見られることへの恐怖感に晒され、毎日苦しくてたまらなかった。
きっかけは、中学の部活のコーチの振る舞いだった。
コーチの気に食わない部員は冷遇された。私はその中で最も嫌われていた
学生コーチとして来ていた彼に、中一から中三までの間、バスケの指導を受けた。それはプレーを上達させるためのアドバイスだけではなかった。チームとして一つにまとまるべき方向を常に考えろ、コーチと監督が話す間は絶対に目を逸らしてはいけない、いつも全力で部活のことに集中しろ、お前らはチームだろ、全員で一緒に頑張るんじゃないのかよ。こんな感じで、彼を中心に一つになることを義務付けられていた。
これだけならまだ良かったけれど、そのまとまりにそぐわない、つまり彼の気にくわない部員は、冷遇された。逆に彼のお気に入りの部員はキャプテンやエース候補として、一年生の時からずっと大切に育てられていた。
こんなことを書いてるのだから、容易に想像がつくと思うけれど、私は彼の気にくわない方の生徒だった。しかもその中で最も嫌われていたと思う。
与え続けられた「ダメな子」の評価。私の価値はゼロなんだ、と信じて疑わなくなった
彼に私が質問をすると、いつだって無表情で「そんなん知らねーよ、お前らのことなんて今考える暇ないんだけど」と言うのに、直後にキャプテンが同じ質問を私の目の前でした時には、嬉しそうな顔で答える。練習中も試合中も、私のミスは全て拾って怒鳴り散らすのに、他のメンバーが同じミスをしても見逃す。
キャプテンがシュートを決めれば「よくやった」と言うのに、私が決めたところで「お前はそれしかできないのか」とぼやいていた。
決して、期待されているからこその厳しい指導ではなかった。ただ、嫌われているだけだった。19歳の今は、彼のその指導が間違っていたと思えるけれど、中学生の私にとって、大学生の彼は紛れもなく「従うべき大人」に見えていたから、彼の冷たい態度は私の日頃の行いが悪いからだと完全に信じ込んでしまった。
そして彼に見られていること、見られて「どうしようもないやつ」と評価されることが恐ろしくなって、他人の目に映る自分は全て「くだらない人間」なんだ、という感覚が生まれてしまった。
自分は、本当にどうしようもなくてダメな子なんだと思うと、途端に周りの視線が刺さってくる気がして、本当に怖かった。そして彼の呪縛のせいで、ダメな子と評価されるのは、自分の価値が0だからだと信じて疑わなかった。いや疑うことさえできないくらい、彼の刷り込みは完璧だった。
自己肯定感をすっかり失くした私を救ってくれたもの
一度、見られることにこれほどの恐怖心が芽生えたせいで、高校生になっても自分のやることは何もかも価値がないのだと思う癖が抜けなかった。自分で自分を「ダメなやつ」と縛り付けることばかり上手くなり、自己肯定感をすっかり失ってしまった。自分が好きなことを好きだと言うことも次第に怖くなってしまった。毎日何にも楽しくなかった。
けれど、幸運にも私の周りに、素敵な大人たちがあらわれた。
高校生になって、バスケを辞め、それまで並行して習っていたダンスに集中するようになり、スタジオの先生たちと過ごす時間が増えた。先生たちは皆、どうしたら動きがよくなるか、「こうしてみたら、こっちの方がやりやすいかも」と真摯に寄り添いながらきちんと教えてくれた。私に今必要な言葉が何かを見極めて、褒めて、助言して、笑って、時には雑談しながら、私がもっと踊れるための指導をしてくれた。
それ以上に、私の個性をまるごと大切にしてくれている。引っ込み思案で口下手でも、私が言いたいことを言い終わるまで、ちゃんと耳を傾けて、答えてくれる。こんなに自分を見てくれる大人がいるんだ。先生たちのおかげで、そう気がついた高校三年生の時にようやく、私の「見られること恐怖症」はどこかへ飛んでいってくれた。
今は誰かに踊っているところを見てもらうことが何より楽しい。
私はこんな人なんです、これが好きです、こんな人になりたいんです、と踊ることで人に伝えることが心の底から楽しい。
先生たちのおかげで恐怖を克服しただけでなくて、こんな人になりたい、という目標までできた。これからはもっと見られることで、ダンサーとして、一人の女の子として、強くなりたい。