小さい頃、人の表情を常に伺う、周りの大人に気をつかう、そんな子どもだった。父親が会社を経営していたため、大人に囲まれた環境の中で育ち、人には良い顔をして良い子だと思われたい。そんな子だった。
 そして気づけば、人からどう思われるかを中心にして生きる人間になっていたかもしれない。どうイメージされるかいつも気になって気になって仕方がない、それによって翻弄され過ぎる浮き沈みの激しい性格だ。今もそう。

不思議なファミリー。物心ついた時から私はいつも不安だった

 しかし私は一つだけ、誰にも負けんばかりと自負する特技がある。
 それは、人を愛する性格であるということだ。
 人ったらしなどは私には大いに褒め言葉である程だ。玉に瑕ともいうらしい。そして私がこれ程までに人好き人間に成長できたのには少しばかり心当たりがある。
 私の父は一度離婚をしており母とは再婚だった。前妻との間に一男二女をもうけていたため実際は5人きょうだいで、歳の差がかなりあったので暮しを共にすることはなかったが、父が片田舎の古い地主の長男だったこともあり、親戚の集いではその都度顔を合わせる不思議なファミリーを形成していたと思う。
 物心ついた時から、私はいつも不安だった。共働きの両親の多忙さもあったが、子どもながらに自身が身を置く環境の複雑さに気づいていた。親をはじめとした家族や周囲の人間から愛されているのか、どれだけ愛されているのか、今となればそんなものは計り知れようのない概念であるのに、常に知りたいと思っては不安に感じていた。
 でも聞けない、そんな子どもだった。

聞き慣れない語彙にくすぐられたような思いがして恥ずかしかった

 ある日、祖父の法事で父の実家に集った時のこと。法事の日は大人たちがお寺さんが何だかんだとバタバタ忙しない。そんな中、当時小学校低学年の私と二つ上の兄を急に抱き寄せて、組んだ膝に片方ずつ乗っけてきたのは腹違いの兄だった。
 そしてキューっと強く抱きしめて、私と兄にだけ聞こえる囁き声で「愛してるよ、俺はお前たちを愛してるからな」と呟いてきたのだ。
 子ども心に驚いた。そして聞き慣れない語彙にくすぐられたような思いがして、恥ずかしかった。そして今でも忘れないのは、キューっと抱きしめられた時に知った兄のセーターが醸す柔軟剤と古い箪笥の混じった香り。
 兄をはじめとして2人の姉は昔からあっけらかんとしている様な素振りで、私の母に思うことはきっと幾らかあった筈だが、私と兄の2人にはきょうだいとして本当によくしてくれた。遊びに連れて行ってくれ、嫌な顔ひとつ見た記憶はない。今となってはそれは環境上当たり前のことではないと感じ、自分の境遇の特殊なことに定期的に感謝出来ている。

思春期の不安定な日々の中に、急死した兄がくれた言葉を思い出した

 根本の性格は圧倒的な自己肯定感の低さを誇りつつ育ったものの、それから数年後、愛してくれた義理兄が持病で急死したことで、私は再度言葉という心の漢方を作用されることとなる。
 悲しみに暮れたのは特筆するまでもないが、思春期の不安定な日々の中に兄がくれた言葉を思い出したのである。
 「愛してるよ」だ。こんな環境の中でも愛されていることに気づいて、忘れるな、そう言われた気がしたのだ。
 そして考えてみると、複雑な環境に不安を抱きつつも私は友達が多い。そして、その友達たちを心から愛している。中には心通わせて心臓をもくれてやろうと思う友人さえいるロマンのヘビーさで、人に笑われる程だ。
 つまるところ人を好きになる力が人一倍強く育っているように思う。瑕はあれどそんな風な私に至れたのはきっと、この言葉から思い巡らせることができる人々がいてのことだと思う。
 さて、若くしてこの世を去った彼の年齢に兄も私も近づいていく。時間が経っても色褪せない兄の小粋な愛のセリフ、私は愛する人に伝えていきたいと思う。言葉は人の心に、人生に作用するのだから。