大学生の頃、サークルの先輩とデートをした。そのとき、突然降り出した雨に私は持っていた折り畳み傘を差し、先輩と相合傘をしたのだが、先輩はすぐに私の傘を代わりに持って、
「こういう力仕事は、男の役目だから」
と自信満々に笑った。

男の役割と女の役割を分けて考える男性が私は苦手だった

先輩のような「自分は良いことをしている」と信じて疑わない男性の瞳には見覚えがあった。例えば、「女の子はこっち」と言ってわざと車道側を歩く男性とか、飲み会で「男子は3000円、女子は1500円でいいよ」と頼んでもいないのに、勝手に値引きする幹事とか、私が女の子であるという理由だけで特別な扱いをするときの男性たちと同じ瞳であった。彼らは重いものを持ったり、車道側を歩いたり、奢ったりすることが「男のあるべき姿」だと、当然のように信じている。

私はこのような、粋な男を演じさせてほしいという期待のこもった眼差しを受けると悪寒がしてしまう。

なぜなら、「男の役割」を信じている信奉者は、同時に「女の役割」の信奉者でもあるからだ。

女性は男性に守ってもらう役割に甘んじていればよいという侮りが透けてみえる。
先輩は、「力仕事は男の役目」と私から傘を奪ったとき、同時に私に「非力な女の役目」も押し付けたと言えるだろう。本当は、傘くらい自分で持てるのに。

しかし、「自分で持ちます!」と断って変な空気になるくらいなら、先輩の期待に応えて非力な女を演じてしまうのが私の気の弱さでもある。だから雨が降り続ける限り、私はずっと自力で傘も差せない後輩の女の子でいなければならなかった。

こういう時、一番厄介なのが、「感謝」を求められることだ。先輩に傘を奪われたとき、車道側を歩かれたとき、ランチ代を奢られたとき、「ありがとうございます」と言うたびに、私の自尊心も傷つけられるような気がした。

というのも、ここで求められる「女の役割」とは、か弱く、男に守ってもらわなければならず、男よりも貧乏であることであり、それはつまり、「男よりも弱い人間」であるからだろう。

この社会では、弱者は感謝をしなければならない立場にあることが多い

「感謝」とは、「謝」りを「感」じると書く。だから「ありがとう」とは「迷惑をかけてすみません」と同義でもあり、「ありがとう」の中には「すみません」という謝罪が含まれているといえる。

思えば、この社会では、弱者は常に感謝をしなければならない立場にあることが多い。子どもの頃を思い返してみるといいだろう。事あるごとに、先生に感謝し、学校に感謝し、親に感謝し、地域に感謝させられていた。

あれは、子どもが、大人に養われ、育てられなければ生きていけない社会的弱者であるために、「(育ててもらうという)迷惑をかけてすみません」=「ありがとうございます」と大人社会に申し開きをしているのだ。

「ありがとう」という度、自分で自分の尊厳を傷つけてしまっていた

弱者の立場にいると、折に触れて、感謝を強いられる場面が多々ある。しかし、その度に感謝という名の謝罪を繰り返していると、だんだん、自分の存在自体が社会にとって「迷惑」なものであるかのような感覚に陥る。

「ありがとう」と誰かに言う度、「迷惑をかけてすみません」と、自分で自分の尊厳を傷つけてしまうのだ。

だからこそ、あの雨の日のデートで、先輩が「男の役目だから」と私の持っていた傘を奪ったとき、それまで対等だったはずの二人の関係が、突然「男」と「男より弱い者」という権力関係に変わり、弱者として位置づけられた私は、強者である先輩に感謝を強いられる存在へと、関係が変わってしまったことがすごく、私は、嫌だったのだ。私を先輩の想像する「女の役割」に当てはめずに、対等に扱ってほしかった。

大学を卒業して数年が経つ。
先輩とは特に恋人関係になることはなかった。
少なくとも私は、恋人と歩く雨のなかで、非力な女を演じる必要のない人と相合傘がしたいと思う。ふたりで何となく柄を持ったり持たなかったりして、お互いに少しずつ肩を濡らしながら、目的地まで笑い合いたいと思うのだ。