目覚めたら、窓の外で雨が降っていた。直前まで見ていた夢の中では、別れた元彼が笑っていたのに。
元彼と私と、あと2人でテーブルを囲んで何か話していた。残りの2人は彼と接点のないメンバーだったから、きっと脳が作り出した妄想だったのだろう。

元彼とは、あちらが別な女の子を好きになって別れた。
だんだん相手に心を許して、頭の中に彼がいることが当たり前になってきたタイミング。年齢的に結婚なども、何となく意識し始めた矢先の失恋だった。

ありがたいことに仕事は忙しいので、四六時中、感傷に浸っている訳にはいかない。しかし、休日の朝、うっかり夢に見てしまったりすると、もう駄目だ。ずるずると、過去のことを考えてしまう。

雨を見て思い出すのは「雨練」と呼ばれていた陸上部時代の練習

さて、雨を見ていて、思い出した記憶がある。それは、学生時代、陸上部で雨の日に行われた練習、通称「雨練」。
「運動部の雨天時練習」と聞いて、どんなものを思い浮かべるだろうか。腕立て伏せや腹筋、スクワット?廊下や階段を列になって走る?

私の「雨練」はそのどちらでもない。
雨の中、雨具も着ないで、それどころか試合用のユニフォームを着て、全力疾走する。それが、我が顧問の提唱した「雨練」である。

陸上競技の大会は、台風や落雷でもない限り、雨でも行われることがほとんどだ。故に、雨を想定した練習もしておく必要がある、というのが顧問の持論だった。
ユニフォームは、いわゆる「ランシャツ」「ランパン」と呼ばれる、恐ろしく露出度の高い、ペラペラの布切れ。そんな恰好で、約40分、大雨に打たれながら走る。

一見、正気の沙汰ではない。実際、一部の保護者からは「雨の中練習して風邪でもひいたら、どうするんだ」「女子生徒をそんな服装で雨の中走らせるなんて、セクハラ、虐待だ」という声もあったと聞く。

賛否両論あることは顧問も承知しており、「雨練」への参加は任意だった。私はというと、「もし本番雨で周りが不調の時に自分だけ慣れていたら、順当にいけば厳しい予選突破が叶うかも」と、非常にセコイ考えで「雨練」に参加していた。

備えるのは当然なのに。雨練から学べていなかったことに気付いた私

大人になって、分かったことがある。「雨練」はリスクマネジメントだ。
着替えやタオルなどの装備、素肌を打つ雨や視界の悪さ、地面を蹴る度に撥ねる水。雨の日に、大会と同様にアップをとりユニフォームで走った経験が、一度でもあるのとないのとでは、動きに雲泥の差がある。

加えて何より、大抵のことは想定の範囲内という気持ちの安定。1時間弱の「雨練」で得られる経験は計り知れない。
東京では、毎年100日以上雨が降る。雨は決して「予想もしていなかったハプニング」ではなく、「年に100日以上ある日常」なのだ。

従って、備えるのは当然で、勝手に「試合の日は晴れ」と決めつけるほうがナンセンス。
そんなことを、あの寒くて、つらい「雨練」から学んだ。はずだった。

傷心の私は、久々に「雨練」を思い出し、何も学べていなかったことに気付く。
どうして、彼がいることが当たり前になっていたのだろう。何を根拠に、そのうち結婚などと考えていたのだろう。

ちょっとネットを見れば、おびただしい数の失恋体験談が溢れている。それなのに、愚かな私は、いつからか「晴れ」を当然のように思っていた。

本番だと信じて疑わなかった恋。経験が自分を強くしてくれますように

依存はしていないつもりだった。メッセージも電話もそんなにしつこく送っていないし、彼がいなくても一人で物事を決められる。
しかし、いざ離れてみて、雨の冷たさを全く想像できていなかったのだ、と気付かされた。

だって、私はこの恋が本番だと信じて疑わなかった。「雨練」は練習だからこそ、慣れることができて良かった、と思えるけれども。
そもそも、恋愛にリスクマネジメントって、どうなんだろう。常に油断せず、イイ女でいる努力を怠らないことか。あるいは、いつ別れても傷つかなくて済むよう、バリアを張り続けるのか。

こんな思考回路こそ、恋愛予報が晴れマークのキラキラ系女子とは、ほど遠い気がしてちょっと悔しい。

考え事をしているうちに、だんだん寝起きの頭が冴えてくる。脳の覚醒と反比例するように、さっきまで見ていた幸せな夢がこぼれ落ちていく。
もう、夢の中で彼が何を話していたのか、思い出せなくなってしまった。

どうすれば良かったのか、これから何をすれば良いのか。まだ答えは出ない。
ただ、この失恋が「雨練」と同じように、ほんの少しでも自分を強くしてくれたら。
ああ、雨でも戦える女になりたい。