東日本大震災から10年が経った。

10年。当時中学2年生だった私は、今や社会人2年生を終えて3年目を迎えた。この10年間、ずっと心の中で考えてきたことがある。蓋をして、見ないようにして、言葉には出さないようにして、そうやってずっと逃げてきたことがある。私の至る所にバラバラと散布している気持ちを整理しなければと思いながら、10年も経ってしまった。

ありえないほどの音量の地響きと共に地面が揺れた「東日本大震災」

当時、私は群馬県に住んでいて、ちょうど卒業式の日だったのを覚えている。3年生を見送った後、部活に打ち込んでいる最中にそれは起こった。ありえないほどの音量の地響きと共に地面が揺れ始めた。

剣道部に所属していた私の身体は防具で守られており、武道館は平屋だったこともあって、恐怖というよりは何が起きているのか分からないという気持ちの方が強かった。

すぐ校庭に出られたのはよかった。校舎にいた生徒の中には、過呼吸になってしまう子もいた。関東でこれなら、東北の方々はどれほど怖い思いをしたのか。

その被害の大きさを知ったのは、数日後。現実に起きていることとは、到底考えられなかった。余震、津波、そして、原子力発電所の事故。幸い、家族や親族、友人など私の周囲で、直接的な被害にあった人はいなかった。ただ、東日本大震災は、私たち家族に不穏な影と複雑さをもたらした。

父は原子力に関する仕事をしていて、どんな仕事なのか聞けなかった…

父は原子力に関する研究者だった。その日から、父が家に帰ってくることは極端に減った。父の会社の持つ原子力発電所を回っていた。出張が続いた。私は父の仕事の内容を聞いたことはなかった。

それから、ずっと聞けなかった。周りにも言えなかった。父に隠れて、父の机に広がる資料やパソコンの画面を覗いたことがあったけれど、何が書いてあるのか全く理解できなかった。なんとなく不安な気持ちがずっと漂っていた。

言葉に出せなかったけど、心の中で「父の仕事は人に誇れる仕事なのか」「人に感謝される仕事なのか」と何度も思ったことがある。

家では父の仕事の話を遠ざけて、私は当たり前のように大学まで通わせてもらい、当たり前のように父の稼いだお金を使った。一度だけ、父と2人でいる時に仕事の話を聞いた。大学4年生の時だったと思う。社会人になる前に聞いておかなければならない気がしたのだ。

父は原子力に関する実験を繰り返し行い、論文を書き、安全性を国に対して立証していくことでお金をもらっていた。ふうん。ちょっとかっこいい。ちゃんと聞いたら、父は少し嬉しそうな顔をしていた。私は少し申し訳なかった。今まで何も知らずに生きてきたことが。

大人になり見えてきたのは、私は父の努力あって生きているということ

大人になって見えてきたことがある。冠婚葬祭において、父の会社の名前を出すことを、母が少し戸惑っていた理由。父は仕事はできるほうではなく、たくさん悩んで今の仕事を続けていたこと。仕事をしてお金を稼ぐということは、びっくりするほど大変だということ。生活は、誰かが働いているから成り立っているということ。ご飯を食べる、歯を磨く、お風呂に入る、電車に乗る、携帯をいじる、いつでもどこでも誰かが働いているから成り立つことだ。

ただ、今でも、父の仕事のことはよくわからない。原子力反対の声を聞くたびに、胸がギュッとしてわからなくなってしまう。父の仕事もなければいけないものだと思うけれど、仕事の話を避けてしまうときがある。ごめんなさい。

それでも変わらないのは、私は父の頑張りがあって、ここまで生きてこれたという事実。父は、この3月で定年退職を迎えた。勤続30年。本当にお疲れさまでした。私たち家族の生活を、たった一人で守ってくれてありがとう。これからもどうぞよろしく。