15年振りに再会した父は、1枚の紙切れになっていた。ハガキサイズの小さな小さな父、15年振りに見たその顔は、幼い私が最後に見たあの日と何ら変わりなかった。
霞がかったような記憶を紐解くように、貴方を思い出した。忘れていたはずの感情が溢れ出た、昨日は思い出しても身体の中が燃えるような激情に駆られることなんてなかった。喉が焼き付くような感覚で、必死に堪えそれでも溢れ出る嗚咽を止めることなんて出来なかった。
両親が離婚してから会っていなかった祖父母の家に行き、仏壇を見ると
何で、今になって。もう10年以上会っていなかったのに、いや、“会う”という表現は可笑しいかもしれない。それでも、私はこれを再会と呼ぼう。何で死んじゃったの? お父さん。
再会は仕事の最中だった。夏の茹だるような暑い日、蝉の声が酷く煩くて、頭に響いたことを覚えている。往診の訪問先リストに父方の祖父母の名と住所があった、両親が離婚して以降会ったことなかった。その名を見るだけで、少しだけ心臓が痛くなって、ぐるぐると目が回るような気持ち悪さに襲われた。
実際会った祖父母は、最後の記憶の中よりも年老いて、厳格でも私に甘かった祖父は丸くなり、元々私の事を甘やかしていた祖母は少しだけ自由を得たように、祖父に少し言い返すようになった。その様を、「珍しい物を見たな」と何処か他人の様に見つめていた。
上司である先生は祖父の容態を見る、仕事する私に祖母は、話し掛けるも右から左へと聞き流し、治療の準備を進めた。ふと、部屋の奥の仏壇に目が行った。知らない男の人の写真が飾ってあった。違う、知らない人なんかじゃない、知っている人だ、私のお父さんだ。
「いつ?」震えた声で、思わず祖母に問うた。祖母の顔はだんだんと悲しそうに眉を下げ、祖父は私の名前をか細い声で悲痛に呼んだ。ああ、現実なんだと理解した途端に涙が零れた。
「仕事中だろ、しっかりしろ自分」と言い聞かせても、涙も嗚咽も止まらなかった。喉が焼けそうになり、立っていられなくなり畳に座り込んでしまった。お腹の中が熱くなって気持ち悪くなって、右も左も上も下も分からなくなりそうな、あの感覚。
先生は、私が落ち着くまで声を掛けずにいてくれたが、いっそのこと、咎めるように名前を呼んで欲しかった。そうでもしてもらわないと、涙がずっと出ていた。外の蝉の声だけしか聞こえない冷たい部屋の中が、何処か遠い出来事のように思えた。まるで映画じゃないかと、何処か他人のような自分が笑ったのが聞こえた気がした。
父は、私たち子供には「優しかった」が、母には酷い夫だった
父は先の大地震、東日本大震災があった年、地震の被害で死んだわけではない。けれど、関東のホテルの風呂場で死んでいたそうだ。身元引受人に、私の母が呼ばれていたそうだ。
子供たちに貧しい幼少期を過ごさせなきゃいけなかったのは誰のせい? 死んだその男じゃないか。見えない傷を沢山付けられた、死んでも極楽なんかに送ってなんかやるものかと、母は父を拒んだ。
私たち子供には、優しい父だった。でも、母には酷い夫だった、世間的にはいい父とも人とも言えなかった。沢山の人を傷つけた、沢山の人を裏切って、母を追い詰めた。人に言えないことも、沢山迷惑を掛けてきた。そんな父だ、そんな男だ、それでも私は大好きだった。
父の所業を知った後、大好きと大嫌いの中で私は必死に生きた。大好きな母を傷つけたくなかった、だから、「嫌いだ」と母の前で言った。大好きな父を嫌いたくなかった、だから一人でずっと思い続けた。
死んだ可哀想なお父さんが、多くの人に許されて浮かばれますように
そうしていくうちに、本当の自分がわからなくなった。謎の感情を原動力に、私はあの夏まで確かに生きた。会った時は文句の一つでも言ってやろう、その為に私は大人になったのだと。それも今になっては、父に会うための口実だったと知った。
もう、会うことは叶わない。一人ぼっちで死んだ可哀想なお父さん、許されなかったお父さん、大好きで大嫌いなお父さん。浮かばれないなら、せめて私だけは貴方を浮かばせてあげよう。
これは、エッセイでもなんでもない。それでも、私はこれを書き綴った。きっと同じ気持ちの子供はどこかにいる。
ねえ、お父さん。私あなたのこと大好きだったよ。さようなら、どうか貴方が、一人でも多くの人に許されて浮かばれますように。