スーパーの駐車場に停められた車の後部座席から、一生懸命に首を伸ばして窓の外を見ている女の子がいる。生まれたときのままの素朴な黒い髪を2つに結び、ショートパンツから伸びる脚は骨ばかりで、まだまだ幼さにあふれている。

これは小学校にあがったばかりの私。とても鮮明な記憶である。この日は結構な雨が降っていたのに、記憶のなかに音はなく、まるで時すら止まっているかのように、しんとしている。

窓ガラスの上から流れてくる「無数の雨粒」を通して見つめた風景

やっと身長が100センチを超えたばかりの私が、座ったまま背伸びをして見ていたのは、車の窓ガラスを次から次へとなぞってくる雨のしずくだった。

窓ガラスの上から流れてくる無数の雨粒。するすると降りてきたかと思えば、引っかかるようにふと止まってしまったり。窓ガラスはツルツルのように見えるけれど、もしかしたら私には見えないわずかなデコボコがあるのかもしれない。そんな個性豊かな動きをする雨粒の向こうには、そのまま見るより少しだけきれいになった風景がある。

といっても、そこはただのスーパーの駐車場だから、見えるものは古びたスーパーや倉庫の壁、じっと主人の帰りを待つ車たち、お客さんを呼び込むネオンライトのテロップ。なんの変哲もないそれらを、初めて見るもののように、幼い私は雨粒を通してじっと見つめる。

この時夢中になって見ていた雨粒の軌跡と、その向こう側の景色。生脚に触れた車のシートの感触。窓に顔を寄せすぎて、頬をふんわりと撫ぜる冷たい空気。それらは今でも身体に残っている。

雨のなか買い物に出ていった母を、父と姉と私の3人が車内で待つという、今思えば少し残酷な、何気ない家族の日常があることのしあわせも。

ありふれた思い出が詰まった父の車の中。あの雨の日の記憶は「特別」

私はもう23歳だけれど、運転免許は持っていないし、家族で出掛ける機会もめっきり少なくなったせいで、車に乗るということがほとんどなくなってしまった。 

私のなかで、父の運転する自家用車の車内は、家族のぬくもりの象徴になっている。かつては、毎年夏になれば、家族4人で車に乗って、あちこち旅行した。私と姉は、後部座席でそれぞれお気に入りのぬいぐるみを抱いて、お菓子を食べて、シートを汚しては父に怒られた。その後ろには、いつも父のお気に入りの歌謡曲が流れていた。

そんなありふれた思い出が詰まった父の車。でも、もっとどこか濃密で、静謐で、密やかにしまっておきたい思い出は、やはりあの雨の日の記憶なのだ。

この記憶には続きがある。私はその日、買い物から帰ったあと、日記を書いた。小学校の先生に提出する日記で、「先生、あのね」という書き出しから始まるもの。「雨のしずくがながれるのを見ていました。みんなうごきがちがって、見ていてたのしかったです」みたいな、そんなつたない日記。

その日記を、母が褒めてくれた。「文章が上手だね」と言ってくれた。その頃から私は「かわいいね」と言われるよりも、「ピアノが上手ね」と言ってもらえるよりも、一番うれしいのは、文章を褒められることになっていた。

窓を流れる雨粒を見ると思い出すのは、家族で出掛けたあの「雨の日」

ただただ家族で出掛けたり、母に褒められたり。そんなことが日常で、純粋にうれしかったかつての日々。大人になるにつれて、家族と衝突する日が増えていった。実家を飛び出そうと企てたことも、数え切れないほどある。

しかし、ふと窓を流れる雨粒を見ると思い出す。何か特別なことをしたわけでもない、ただ家族で近所に買い物へ行っただけの一日。もう15年以上も前の、ごく普通の日常。この思い出が、かつて心から家族を頼りにして、信じて愛して、そうしていた日々を思い起こすきっかけになっている。そして、過去を忘れて勝手な行動に出てしまった自分を責め、流す涙は、偶然あの日の雨粒と同じ軌跡を辿る。

雨の予報は、気象予報士さんからも残念そうに伝えられるし、「あいにくの天気」なんて表現されてしまう。天気に良いも悪いも本当はないはずなのに、のけものにされてしまう雨。

それでも、あの一日をこんなにもあざやかに、幼き日の思い出として心に残してくれたのは、他でもない、あの日車窓を流れていた雨粒なのだ。