ずうーっとこのままだったらいいのになあー。
と思った瞬間は、雨が降る夜の助手席だった。
早く、ここから出ていかなくちゃ。
と思ったのは、雨上がりの夜のいつもと同じ助手席だった。
パンチの効いている願い事を、何度も叶えてくれた同い年の彼
運転席には数週間前に男友達へと姿を変えた元彼がいる。先ほど食べた家系ラーメンにたっぷり追加したニンニクの匂いを蔓延させながら熱唱している。カーラジオから流れていたのは、WANIMAか何かだったと思う。彼が大好きなバンドだった。
臭い、けど、雨の中を走行中の車からはもちろん外へ出られない。窓を開けるのも憚られた。
右半分をシャットアウトしてしまえば、夜の東京はキラキラしていて、雨がさらに光を捕まえて、ほとんど何にも見えない中で揺れるオレンジや水色が綺麗だった。
「雨の日の車の中って、なんか懐かしい感じするよね」
と声をかけみたけれど、彼は気づかないようだった。
18歳から、ほぼ車に乗らないまま23歳になった。
都内に住む人からしたら自然なことかもしれないけれど、田舎の車社会で育った私はドライブがしたくてしたくてたまらなかった。
かと言って自分で免許も、もちろん車も持っていない。完全に誰かに乗せてもらいたい甘えた人間だ。
「23歳、都内在住、免許なし会社員!今一番やりたいことは自分が作ったプレイリストで真夜中の海へドライブ!」
なかなかパンチ効いているなと自分でも思った願い事を、「もういいよ」と言いたくなるほど何度も叶えてくれたのは、同い年の彼だった。
この助手席に乗るのも最後。「彼氏ができたから」と言うのは嫌だった
「わたしは車の運転が大好きだから、いいのよ」
と、いつもご機嫌に言う。免許がなくて運転を代われない私を、彼はどこへでも連れて行った。
助手席にはひとつもルールがなく、ずっと本を読んでいてもよかったし、大声で歌ってもよくて、ある日眠ってしまった私が目を覚ました時も、
「安心してくれてるんだなあ、って嬉しいから、眠い時はたくさん寝てね」
と謝る隙も与えなかった。
特に私が気に入っていたのは、雨が降る夜のドライブだった。
傘が嫌いで、傘を持ってすらいない私が雨に濡れないように、家の入り口の目の前に車をつけてくれる。水が車体に跳ねる音と、ワイパーがときどきキュッと鳴る音。モヤモヤと光っている東京の街。
いつもはガラス一枚先の現実たちが、少し遠いところにあって、ここにいる私たちだけの存在ばかりが強くなる感じがして、ちょっと気まずい。
でもそういう空気で、窓の外を静かにみているのが好きだった。
ずうーっとこのままだったらいいのになあー。
口にも出したかもしれない。
けれどもう、流石にここで眠れないし、この助手席に乗るのも最後だ。
「彼氏ができたから」と言うのは嫌だった。
「お互い人間としては好きなのだから、気持ちの良いお友達になろう」と言ったのと、少し矛盾するような気がしたから。
でも今、私はお友達といるっていうのとも違う感覚だ。彼はニンニク臭いし、用事もないのに会って夜の東京を走っていることは不思議だった。行き場所もお金もない私たちが、都内の交通量をひとつ、増やしている。
今すぐ出て行かなくちゃいけないぞ、という変な焦燥感にかられ、フロントガラスの方にシートベルトを引っ張りながら身を乗り出すと、
「あっ、それは見えづらくなるからやめてね」
と優しく注意された。
私はこんなに、彼の気持ちがわからなかった。
口癖で「またね」と言って、嫌いなアパートを眺める。傘を買おう。
安保坂。
助手席側の窓から、安保坂と書いてある石標が見えた。
雨はほとんど降っていないくらいに弱まっていた。
ちょうど信号で止まった真横に「安保坂」。
まだ車が動かないことをなんとなく確認して窓を開ける。
雨はもう降っていなかった。
窓に溜まっていた大量の雨粒が私の左腕と前髪を濡らした。
充満していたニンニク臭い空気を雨上がりの夜の匂いと交換する。
「あほざか?」
あとで調べた正しい読み方は「あぼざか」だったけれど、今の私には「あほざか」だった。
そうだよね、恋人でもない男の子の車にどこへ向かうでもないのに乗って、ニンニクの匂いを我慢して、私はあほだ、あほそのものだ、こんなのはあほだ!と窓の隙間から一生懸命外の空気を貪った。
雨上がりは世界に音が戻って、夜は変わらず暗いけれど、間違いなく清々しい。
「またね」
ただの口癖だけでそう言って、家の前で降ろしてもらった。振り返って、大嫌いな自分のアパートをしっかり眺める。
あの角の私の部屋は、仮住まいみたいに何もない。1人で生きていく覚悟がまるでない。
傘を買おう。
と決めて、鞄の中の鍵を勘で探った。