しとしとと、私の心の中に深く降り積もる記憶がある。目を閉じて、ジャズと共に記憶の深部まで辿ってみた。全身をめぐる酸素や血液も、過去にタイムスリップしようとする私の脳内にわくわくしていたかもしれない。
そして、気づいたら、私の印象深い出来事はいつも雨とともにあるという結論にたどりついた。

雨のせいか皆の笑顔が曇った入学式。私には「祝福」に感じた

真新しいランドセルと制服に身を包んだ春、母は病気で大きな病院に入院していたため、入学式には父が出席した。他の子達は皆んな母親と手を繋ぎながら、校舎の外の雨模様を眺めていた。
入学式に母親と一緒にいられて嬉しい気持ちもあるだろうが、雨のせいか皆んなの笑顔が若干曇っていた。

しかし、私には雨から祝福されているように感じた。今日この日を誰よりも楽しみにしていたけど来られなかった母の分まで、雨は拍手喝采しながら見守ってくれたのだと。
父の手を握り、私も外を眺めた。

それからしばらくして、母が退院した日も雨だった。
そのときの雨はどこか穏やかで、優しく語りかけてくるような感じがした。
退院おめでとう、まだ安静にしててねと看護師さんのかわりに雨が母に伝えている気がした。母の好きな三色団子の外包装を雨が優しくなでた。

雨に気付かされた人生のはやさ。久しぶりの外出で雨に心を救われた

それから月日は流れ、中学生になり、父親と激しい口論になり、家を飛び出した日も雨だった。もう家に帰らないと意地になってへの字口のまま、財布ひとつで飛び出したのも今では笑い話である。

その二時間後には、なぜムキになってしまったのか自分に問いかけて恥ずかしくなっていた。また、父の日が近いこともあり、父にあげるプレゼントを買って、土砂降りの中、傘もささずに走って帰った。

案の定、父には噴火した火山の如く怒られたけど、雨はそんな私をドンマイと笑ってくれたにちがいない。なんとか父の怒りをしずめて、プレゼントを渡して仲直りできたとき、ほっとした。

義務教育から解放された頃、自分の個性ゆえに他人とぶつかることが増えて引きこもりがちになった。私のアイデンティティでは、この世界ですらもお弁当箱のしきりの中に詰められて息苦しいのだろうなと悟った。今考えればお恥ずかしい限りだが。
そんな時、窓をつたう雫が人生のはやさを物語るように感じて、はっとした。
引きこもっていては、人生が雨の雫のように一瞬で流れ去ってしまうと。
久しぶりに外に出たその日は、雨に心を救われた気がした。いつもより、花の匂いが芳しく感じた。

雨は厄介なものではなく、考え方次第で価値のある宝石にもなる

社会人になり、恋愛、人間関係、仕事などで息が詰まりそうになった私をしとしとと雨はなでて励ましてくれた。だから、今こうしてエッセイをニコニコしながらかいている自分がいることに感謝している。

雨はあいにくなんかではない。私には人生のエッセンスのように大切な存在なのだ。

私の心の中に、降り積もった思い出と雨の日は、きっとこれからの残りの人生も時に切なく時に楽しく案内してくれることだろう。

雨というのは、けしてやっかいなものではなく、考え方次第では価値ある宝石のように人生に花を添えてくれる。

雨がまた降ったら、私は記憶の1ページがまた増えると思い、ワクワクすると思う。それと同時に過去の記憶の声を耳にして、ノスタルジアに心を寄せるかもしれない。
あなたも、雨とともに記憶のページをめくりませんか?