「家族がSNSでゆるく繋がる関係になっています」
父がそんな言葉をFacebookに投稿していた。投稿には数枚の写真と、父独特のゆるい語り口調の文章が添えられていた。
父が綴っていたのは家族3人が丸の内でランチをした日のことだ。メンバーは東京を訪れたわたしと東京に住む父、東京近郊に住む弟の3人だった。わたしが社会人になってからは家族4人がばらばらに暮らしていた。写真の中の3人はパエリヤに舌鼓を打っていた。Facebookにすっかり大きくなった子どもたちの写真を投稿するくらいだから、父にとって嬉しい出来事だったのだろう。それは十分に伝わってきた。
けれど、当時のわたしは「家族ってそんなにゆるいものかな」と少しいじわるな見方をしていた。今思い返してみると、翌月から仕事が忙しくなると決まっていて、ナイーブな気持ちになっていた。そして、父独特のゆるい語り口調はわたしを苛立たせた。
幼少期から成長した今。私が父親に対して抱く「べき論」と外せない「色眼鏡」
幼い日のことを思い返してみる。
わたしは父をイケメンだと思い込んでいた。成長とともに審美眼が養われ、世間一般で言うイケメンではないと気付いた。わたしが父をイケメンだと思い込んだのは、父がいつも優しかったからだ。
付け加えると父に頼めばたいていのおもちゃを買ってもらえた。父は仕事が忙しくて土日も家にいないことが多かった。平日に至ってはわたしが起きている間に帰ってくることはまれで、父は家に帰って来ていないと思っていた。珍しく早起きをした幼稚園児のわたしは父に「今度はいつ帰ってくるの」と聞いたくらいだ。
確かに父は家族のために一生懸命に仕事をしていた。それは間違いない。でも、いじわるな見方をすれば、父は育児の上澄みの綺麗な部分を選んで参加していた。
幼い日のわたしは父の愛情を素直に受け取れていた。いつから素直に受け取れなくなったのだろう。
小学生の時に父が家族のためにパエリヤを作ってくれた。水に浸かったサフランがありありと思い出される。器の中の水は時間とともに黄色く染まっていった。このときはまだ素直にわたしへの愛情を受け取れていた。
高校生の時はどうだろう。わたしが希望する進路に父はあまり賛成していなかった。このときに父はわたしのしたいことに手放しで賛成してくれないのだと、寂しい気持ちになった。
わたしが大学を卒業する頃または社会人になりたての頃だっただろうか。何気ない会話の流れで父が「自分の人生なんて…」と呟いたときのことだ。いつものように父独特のゆるい語り口調だった。
もしかしたら父にとってはあまり深い意味のない言葉だったのかもしれない。でも、わたしは娘に弱音や愚痴を吐かないで欲しいと思った。
わたしは自分でも気付かぬうちにいじわるな見方をする眼鏡をかけてしまっている。眼鏡なのに簡単に外せない。もはやアロンアルファでくっつけられたコンタクトレンズだ。
「父とはこうあるべき」や「家族とはこうあるべき」という固定概念に縛られている。
頑張っていじわる眼鏡を外してみたら違う景色が見えた。わたしが1歳のときに父は思いがけない病気にかかり長期間入院をしていた。けれど、治療が終わった後はやっぱり仕事漬けの生活に戻っていった。過去のこととはいえ弱音や愚痴を吐きたくなる気持ちが分かる気がする。むしろ、過去になったからこそ吐けるのかもしれない。
まだまだ素直に受け取れない父の言葉。だけど少しだけ近づいてみようかな
子どもたちが成人し自立した今、家族はゆるく繋がるくらいが心地良い。父が飾らない本音を言うようになったのは子どもが大人になったからかもしれない。父・家族への考え方に限らず、いじわる眼鏡は外してしまった方が自分にとっても楽なはずだ。いじわる眼鏡を外したいと思いながら、自分をかたち作ってきた価値観はそう簡単に変えられない。
実は今もまだ父の言葉を言葉通りに受け取れないことがある。でも、父が送ってくるLINEのスタンプであれば素直に受け取れる、そんな気がしている。
子どもに特に手がかかる乳幼児期に、父は仕事漬けの毎日だった。その結果として育児における実働時間は短かった。
もちろん苦労を乗り越えて育ててくれたことには感謝している。でも、こんなに可愛い存在と過ごせたことに対しては末永く感謝し続けて欲しい。
そういえば、冒頭で一緒にパエリヤを食べた弟は失恋をきっかけに「家族と友達を大切にする」と誓いを立てた。そんな弟と共同出資して何かプレゼントを選ぼうと思う。