あーたん。
正直、あなたについて作文をするなど思ってもみなかった。

"あーたん"は、わたしの父方の祖母。
ばあちゃんと言えなかった幼いわたしの呼び方がそのまま定着した。
同じくじいちゃんが言えず、父方の祖父は"じーたん"だ。
あーたんのことをわたしはいまだに、祖母だと思えずに、言えずにいる。
だから今回はあえて愛称で呼ばせてほしい。

孫のことをちゃんと叱るあーたん。いじわるなイメージが拭えないわけ

じーたんとは再婚同士だった。
前妻を亡くした後、じーたんは実姉の協力を借り息子2人(父と叔父)を育て上げた。
あーたんがどのタイミングでやってきたのかは、知らない。
祖父に似て優しい叔父は多少気にかけてはいたが、父も叔父も、あまり懐いてはいないようだった。

結構な頻度で父の実家へは訪れていたと思う。
私や弟の生まれた年には庭にさくらんぼの木を植えてくれた。
それぞれ「(名前)の木」と呼んで、毎年収穫するのが楽しみだった。

じーたんは、絵に描いたような優しい祖父だった。
焼酎と将棋と相撲が好きで、テレビはいつも相撲中継でつまらなかった。
わたしの記憶の中のじーたんの隣にはいつも焼酎の4リットルボトルがある。
いつもくしゃくしゃの笑顔だった。笑顔以外のじーたんをわたしは知らない。

自分のことを「わち」と呼ぶあーたんは、口数が多く、北海道の海沿い田舎の人間なので声も大きいし方言も荒かった。
私たち孫のことをちゃんと叱る人だった。
どうしてもいじわるなイメージが拭えないのは、じーたんと、母方の祖母がものすごく優しくて孫に甘かったから、子供心に比べてしまって"怒るし口悪いし冷たい"だけだったのかもしれないが、今となっては知る術もない。

ただ、女の子はませている。
わたしは母や弟嫁とあーたんの仲が良くないことも知っていた。
子供にとって母はすべてだ。
その時点でわたしはあーたんに、敵認定を下していたのかもしれない。

わたしは母や弟嫁とあーたんの仲が良くないことも知っていた

2002年3月。わたしの父が急死した。
父が死んだことで、父の実家に行く回数は前より減った。

その1年半後の2003年10月。父の実父であるじーたんが死去した。
そのあとは、わたしの記憶では父の実家を訪れたのはわずか2回だ。

2度目の訪問は酷いものだった。
隣のおばさんの家にお邪魔する方がまだ楽しめよう、他人行儀な沈黙。
元々口数の少ない母と、遊び相手の祖父がいなくなった私たち姉弟。
叔父夫婦も近所の子供もみんな集まってスーファミやってご飯を食べた、賑やかだったあの家で、ぽつり、ぽつりと交わされる言葉の間の深い無音は、今も苦くわたしの記憶に染み付いている。

それ以降、あの家に行くことはなかった。それも仕方のないことなのだと思う。
だって父と祖父がいないのなら、元々父との血縁がないあーたんとわたしたち家族はもう赤の他人なのだ。

それから数年。あーたんを見かけた。
目を疑ったが間違いなかった。あの頃より歳はとったものの、変わらない。
向こうはわたしに全く気づかないまま、通り過ぎて行った。
それもそのはず、こちらは小学2年生から高校2年生になったのだ。もはや別人である。

それがわたしがあーたんを見た最後だった。

あの日々の証明のさくらんぼの木だけは、今も残っていてほしい

さらに数年後。
母から「あーたん、亡くなったんだって」と告げられた。
そのときの感情が、いまだに忘れられないのである。
「ふーん…」
どうがんばっても、これ以上もこれ以下も出てこなかった。

昔から感受性が人より強く映画や言葉に情緒を引っ張られやすいわたしが、こんなに感情の湧かない死があるものなのかと自分で驚いた。
会ったこともないどこかの誰かが亡くなったニュースの方がまだ悲しい。

結局、元々血の繋がりのないわたしとあーたんは、どこかのタイミングで本当の他人に戻ってしまった。
だからわたしはいまも、あーたんのことを「祖母」と呼べないのだ。
幾年間かは確かに祖母と孫だったはずなのに。
あの日々の証明であるさくらんぼの木だけは、今も残っていてほしいと想いを馳せるのである。