雨の日は家の中で雨音を聞いていたい、できれば美味しい紅茶を片手に。雨の思い出を振り返ったときに、とっさに浮かんでくるのはさんざんな記憶ばかりだ。
雨はさんざんな記憶ばかりだけど、いつか止んで虹が顔を出すことも
高校生の頃にひどい大雨が降った。ぎゅうぎゅう詰めの電車を降りた後、帰路についた。
傘をさしていたのにセーラー服がびっしょりになった。どうでも良くなったわたしは、傘をたたむことにした。
家に帰り着いて真っ黒な学生鞄の中の確認してみた。雨から守るためにビニール袋に入れた教科書がしっとりと濡れていた。
大学生の頃に大雨の中、スーツを着てバイト先に向かっていた。わたしの右横を車が通り過ぎたときに盛大に水しぶきを浴び、水も滴る濡れねずみになってしまった。不幸中の幸いはその日は勤務日ではなかったことだ。講師が笑えないレベルの濡れねずみでは生徒も困っただろう。
やはり雨はさんざんな記憶ばかりを残していく。だから、雨の日は家の中で雨音を聞いていたい。
雨はいつか止む。ただ、いつ止むのかは分からない。雨が止んだ後に虹が顔を出すことがある。いつだって虹は思いがけないプレゼントだ。虹の思い出ならもう少しキラキラした記憶を掬えるかもしれない。
大学生の頃にグアムのビーチで遊んでいるときにスコールに見舞われた。その後、ほんの束の間だったけれど、虹が現れてくれた。見とれているうちに消えてしまった。
海外旅行だけでなく国内旅行でも虹の思い出はある。奄美大島に向かう飛行機の中で見た空は灰色で分厚い雲が立ち込めていた。重たい空の端っこに筋のように細い虹が出ていた。
わたしは何度も雨からプレゼントをもらっていたのだ。けれど、そのプレゼントは手を伸ばして掴もうとするとたちまち消えてしまう。
「ねえ、外を見て」。夏の日に友人と見た虹の思い出
一番忘れられない虹の思い出はリゾート地ではなく、もっと身近な日常に隠れていた。それは夏の日に友人と見た虹だった。
こぢんまりとした空間でわたしは窓を背にしていた。彼女の手元にはグラスが置かれていた。時折、彼女は冷たい水で喉を潤した。いくつか年上の彼女は、人生の岐路に立たされていた。
岐路、それがふさわしい表現なのかは分からない。どの道を選んでも目的地ははっきりと決まっているのだから。
彼女が抱えていた悩みはとても重たかった。心を空模様に例えるなら、毎日分厚い雲が立ち込めていただろう。その悩みはわたしが経験したことのない類のものだった。そして、いまだに深く考える機会のない悩みだ。
彼女の悩みは彼女の家族の悩みでもあった。そして、彼女の家族の悩みもまた彼女の悩みだった。わたしは彼女の家族の気持ちには共感できた。わたしたちは気付けば話し込んでいた。
漂う空気の重さを察したのか、誰一人として水を注ぎに来なかった。彼女のグラスの水は少なくなっていた。そして、冷たかった水がぬるくなるのに十分な時間が過ぎていた。
「ねえ、外を見て」と言って、彼女は窓の外を指さした。
そこには虹が出ていた。わたしたちは笑い合った。
雨の中でしか見られない景色があり、息を呑む絶景は日常に隠れている
その後、彼女が虹を見たのかどうか知らない。けれど、あの夏の日に二人で見た虹が彼女にとって最後の虹だった可能性は十分にある。彼女は1ヶ月足らずでどんなに手を伸ばしても届かない場所に行ってしまった。
わたしが深く関わらないだけで、彼女のように大切な人を置いて去る悩みを抱える人は大勢いる。きっと絶対的な正解はなくて、周りに誰かがいてくれても孤独だ。時間は止まることなく流れ、グラスの中の水は確実に減っていく。望むと望まざるとに関わらず目的地へと運ばれていく。
他人事のように書いているけれど、わたしだって目的地は一緒だ。今のわたしは具体的な期限が知らされていないだけだ。結局のところ、どの道を選んでも目的地ははっきりと決まっている。目的地がウユニ塩湖のような絶景だったら良いのにとただ願うだけだ。
雨はいつか止む。ただ、いつ止むのかは分からない。そして、虹が顔を出す保証はどこにもない。グアムや奄美大島がからりと晴れていても、わたしの住む街には雨が降り注ぎ続けるかもしれない。
雨の日は家の中で雨音を聞いていたい。さんざんな目には遭うのはごめんだ。
だけど、雨の中でしか見られない景色がある。息を呑むような絶景は日常に隠れている。
高校生の頃のわたしのように、どしゃ降りの雨の中でわざわざ傘をたたまなくていい。雨やどりと回り道を繰り返しながら、カタツムリのようにゆっくりと進めばいいのだ。