傘をみると、あの人を思い出す。
いつだったか、梅雨が続いた5月のことだ。この雨はしつこく降り続くだろうと確信して、暇を持て余すように図書館に通い詰めた。
私の傘の隣に置かれた薄みどり色の傘。持ち主にケロと名付けた
相変わらず灰色の雲が空一面を包み込む憂鬱な天気の日曜日で、いつものように入り口付近に置かれている傘立てに、濡れたビニール傘を突き刺した。味気ない私の傘の隣には、くたびれた薄みどり色の傘が、ネームバンドも止めずに無造作な格好で置かれている。
ださい傘だった。こんなださい傘は、そうそうない。私はその傘の持ち主が誰なのか、ふいに知りたくなった。そして、緑色のださい傘地に敬意を表して、持ち主のことを”ケロ”と呼ぶことにした。
無論、だれが本当の持ち主なのかは知る由もない。なぜケロなのかと聞かれたら、単純にこう答える。梅雨の時期に趣味の悪いみどり色の傘を持ち歩くなんて、おそらく持ち主はカエルだろうと思ったからだ。
その傘は、ほとんど毎日のように傘立てに置かれていた。私は図書館で時間を潰すとき、主人のケロを探した。退屈な梅雨にぴったりな、小さな遊びだった。
ケロの正体は気難しい顔をして新聞を読む老人か、またはPCと参考書に顔を貼り付けている学生か、または受付でうたた寝をしている司書の女性か。どれも違うような気がした。
そして私は何日か思い悩んだ末、ひとりの男をケロにした。歴史の棚に立っている、背が高そうな猫背の男。閲覧スペースの席は十分に空いているのに、見向きもせず、直立不動で本を両手に持っている。足元のキャンバススニーカーは雨に濡れて、恐らく灰色だった布地が浅黒く変色している。シャツの襟からはみ出た、四方に跳ねる黒髪の襟足をみて、私は彼がケロだと思った。
理由などない。ただ、なんとなく、でもはっきりと確信するほど、彼はケロに違いなかった。
雨が降ると必ずケロはいた。そんな彼の隠れた瞳の色が見たかった
雨が降る日に図書館に通うと、面白いほどケロは必ずいた。みどりの傘も、もちろん傘立てに挿してある。
ケロはいつも歴史の棚の近くにいたので、彼のうしろにある棚をわざと覗いてみたりした。ここも同じく歴史書関連の本がずらりと並び、心の底から興味が湧かず、「全然わからないわ」と口に出さず心のなかで愚痴を言ったりした。ケロは相変わらず棚にへばりつくように本を読んでいるし、私はほとんどストーカーだ。
ただ、何故だかケロは、この梅雨が終わる頃に、ここにはもう来なくなってしまうような気がした。重たい雲が晴れて太陽が顔を出したら、もう二度と、この棚の前で姿を見ることは叶わないような、そんな気がしていたのだ。
だから、私は一度で良いから、隠れた瞳の色が見たかった。
しかし何日通っても、ケロが振り向くことはなく、諦めた私はほとんど項垂れながら、貸出する予定の文学書を抱えて受付に向かって歩き出した。どうせ退屈な遊びだった。それが退屈なまま終わるだけだ。そう思った。
しかし、うしろから声が聞こえた。位置関係からして、それは恐らくケロの声だと思われた。
ケロの瞳の色を観た私は、なぜか長く続いた梅雨の終わりを感じた
「すいません、邪魔でしたか。ここの棚で何か取りますか?」
雨というより、雨上がりに吹く風のような滑らかな響きをもった声だった。驚きのあまり、両手に持っていた文学書が手からすり抜けて落ちていく。ケロは慌てたように下に落ちた本を拾い上げ、私に向かって差し出した。
濁りを知らない、漆黒の眼球があった。白い肌を囲んでいるうねった黒髪は、心から居心地よさそうに、彼の頭で眠っている。10代にも、20代にも、30代にも見える。不思議な顔立ちをした男だった。
ケロは視線だけで会釈をして歴史の棚から離れていった。私はなぜか今日かぎりで、ながく続いた梅雨が終わるだろうと思った。
帰り際、いつものように傘立てをみた。みどり色の傘は、姿を消している。それだけ確認して、自分のビニール傘を勢い良く広げた。意味もなく、クルクル、クルクルと回してみた。
透明の傘にはじかれるように付いた水滴がよく見える。
朝方に降っていた雨はもうほとんど止んでいた。通行人は、空を見上げてさしていた傘を閉じていく。私は何だか雨が恋しくなって、ほとんど無音のなかしばらく傘を閉じないで歩いた。
街のなかで無意識に、いや意識的に薄みどり色の傘を探した。
二度と、同じ梅雨は訪れなかった。