「学校というのは、カリキュラムに沿った教育がされています。しかし、隠されたカリキュラムというものもあります。皆さんは学校生活の中で隠されたカリキュラムを感じたことはありますか」という問いに対して、私は脳内の薄暗くじめじめとした所に保存していた(封印していた)自分自身の学校生活についての記憶を引っ張り出した。
テストの成績が悪かったくらいで、先生に出鱈目な未来予知された
私は本当に学校が嫌いだった。好きな科目はあったし、幸運にも友達もいた。気の休まる時間がなかったわけではない。でも、本当に学校が嫌いだったのだ。
“みんなが楽しく過ごしている。笑顔で、仲良く肩を組み目標に向かって汗を流す”、自分が望む望まないに関わらず、そんな集団の中に押し込まれる。楽しくなさそうだったら「何故、楽しそうにしないのか」と責められる。暗くて内向的な私は、そんな学校がとても嫌だった。
高校を卒業し、大学に進学した私は福祉について学んでいる。その中で、これまでの学校生活についての疑問がいくつか出てきた。
高校生の頃、日本史の点数がかなり落ちたことがあった。その日本史の先生は、とても厳しい人だった。案の定呼び出しをくらい、こっぴどく叱られた。私が悪いのは分かっているのだが、先生に「しっかりしなきゃ、お前はいつか子どもを産んで母親になるんだから。そんなに不真面目じゃ、子どもを育てられない」と言われたことがある。
まず私が結婚するとか、子どもを産むとかは、まだ決まっていない。勝手に出鱈目な未来予知して、「母親になるんだから」とか言われても困るのだ。次に、私がもし子どもを産んだとして、私の不真面目さ(提出物を出せないとか、テスト対策ができてないとか)が子育てに何か関係あるんだろうか。子育ては一人で行うものではないので、私の性質を補う何かを利用すればいい。
先生の叱り方は、それを全く考えていないように思うのだ。というか、テストの点の悪さを咎めるのに、私の人生にまで言及される筋合いなくない? と思うのだ。
学校は、目立たずお行儀よく働くため「個性の殺し方」を教えている?
また、靴下の色が白でなければならない校則に、洗濯が大変で買い替える頻度も高くなると反対した時も「皆さんのお母さまに良くお願いしてください」とか「自分で洗濯すればお母さまの負担が減る」とかで聞いてもらえなかった。寮生で家事は自分でしていた私は、そもそも“お母さま”に洗濯してもらっていなかったのに。
こんなことが何度かあった。思い出す度ため息が出る。学校は従順な労働力を育てる所なのだと思ってしまう。性別で割り振られた役割をこなす方法、目立たずお行儀よく働くための個性の殺し方を学校では教えているのだ。これが学校における隠されたカリキュラムなのだと思う。
よく「学校というのは社会に出るまでの訓練をする所で、理不尽なことに耐えることも学校で学ぶべきことの一つだ」ということを聞く。流行った歌ではないが、そんなの「うっせえわ」と思わないだろうか。
学校では理不尽に耐える方法ではなく、立ち向かう方法を教えてほしい
私たちは、理不尽なことに耐える必要はないはずだ。学校では、理不尽に立ち向かう方法を教えてほしい。学校は私たちに人権の尊さについて教えながら、私たちの人権が脅かされている時にどうすればいいのかを教えてくれない。
私の進学した大学には色んな人がいる。着ている服も歩き方も話し方も全然違う人が、一緒に学んでいるのだ。留学生や身体に障がいのある人、オタクも陽キャも、学びたいならここで学んでいいのだ。
「私たちは社会で生活する為に、他の誰からの審査も承認も必要としない。ただ存在している」これが今の社会では難しいので、様々な問題が起きているのではないだろうか。私は私のできる範囲で、私や私の隣人が過ごしやすい環境を作りたい。
そのために私は、破りたいルールに中指を立て、堂々と「NO」と言うのだ。