小さい頃からテストは100点が当たり前だった私。将来は当然、東京の大学に行って、本の編集の仕事をするんだ、という目標があった。

大好きだった部活も辞めて、家と学校の往復の中でひたすら勉強

高い鼻をへし折られたのは地元で1番の進学校に入ってからのこと。最初の成績は上位1/3に入っていたが、授業のペースの速さと膨大な課題についていけず、成績は1年の1学期で急降下。みんなが覚えていることを私だけが覚えられない。「こんなの私じゃない」と、泣きながら世界史の再テストに丸暗記で取り組んだ覚えがある。

東京にある憧れの大学に入るには程遠い学力で、夏休みや春休みがくるたびに挽回を決意した。けれども、解けない課題をむりやりやっつけるのに精一杯。本当に学力をつけたかったら、学校の合わない課題に見切りをつけて簡単な教材からやり直すこともできたはず。今の私なら脇目も振らずそうしているだろう。けれども見栄っ張りだったので、課題の体裁を整えることでいっぱいいっぱいだった。当然、実力を底上げすることはできなかった。
理解できない授業には、必死のノート取りと丸暗記でかろうじて食いついた。水泳に例えると、みんなはクロールでスイスイ進めるのに、私だけ犬かきで進むような感覚。低い成績をなんとか上げるため、大好きだった部活も辞めて家と学校の往復の中でひたすら勉強だけに取り組む。心細い作業だった。

帰省のバスで偶然隣り合わせた、高校の同級生の言葉を耳にして

両親からは、現役で公立大学に入ってほしいと言われていたので、確実に入れると見込んだ地方の国立大学に進学した。今思えば十分に素敵な大学なのに、東京で学びたかった私にとっては心晴れない新生活の始まりだった。東京なら、出版社がたくさんあるし、何かとメディアに近いから夢に近づけるのに……。

大学1年の5月、帰省のバスで、同じ大学の看護学科に進学した高校の同級生と、偶然席が隣になる。彼女には助産師になるという確固たる目標があることを知った。そのために大学を選び、カリキュラムを受けているのだとか。それにひきかえ、せっかく入学できた大学でちっとも学ぶ目的を見出せない私。本当は東京に行きたかったことを彼女に打ち明けると、サラッとこう言った。
「編入で入る方法があるよ」

「編入」という制度は大学の3年次(大学によっては2年次の場合もある)から入学する制度。高専卒業生や、4年制大学の2年までに規定の単位を修得した人に開かれた門戸だ。受験科目は大抵が英語・専攻する学科の学問・小論文・面接から成る。科目は少ないけれど、若干名しか入れない狭き門。さらに私は留年をしたくなかったのでチャンスは一度きり。賭けに近いものがあった。それでも、最大にして最後のチャンスと思ったので、この制度を知ってからの私の行動は速かった。編入を受け入れている大学を調べ、寝台列車や夜行バスでオープンキャンパスに向かい、教授の話を直接聞きに行く。バイトで貯めたお金を編入予備校の授業料にあてがい、自分に合った教材を書店で探す。高校のときは全然ついていけなかった勉強を久々に自分でコントロールできる感覚が心地よかった。

地道な苦労の日々であり、それまでの人生で一番輝いた2年間だった

大学の勉強と並行してコツコツと取り組んだ甲斐あって、編入試験に合格した。編入を控えた頃、学科のみんなが、2年生で去る私のために手作りの「卒業アルバム」を作ってくれた。編入に向けて勉強していることは内緒にしていたけれど、「なんだか頑張っている」私を頼もしく感じ、最後まで一緒に学びたかったと言ってくれる友人もいた。最初に入った大学は希望していた場所ではなかったけれど、確実に、かけがえのない友達と出会えた2年間だったと思う。地道な苦労の日々であったと同時に、それまでの人生で一番輝いた2年間だった。

バスで一緒になった同級生が、なだめるでもなく、慰めるでもなく、何気なく放った具体的な解決手段。彼女にとってはなんでも無い一言だったらしく、全然覚えていないらしいが、この一言が私を目的への具体的な行動へと突き動かした。
編入後は大学の勉強に、就職活動にと目の回る日々だったけれど、念願叶い、憧れだった書籍編集の仕事に就けた。今もせっせと働き、いろんな人に会って企画を何度も練り直す日々。編入の勉強で培った行動力は、今に活かせている。