「学生時代に頑張ったことは何ですか?」という問いかけに言葉が出てこず、担任の先生に呼び出された。だって頑張ったことなんて本当にない。たくさんの言い訳を考えながら、職員室へ向かう。

学校が世界の全てである私たちとって、私の存在は偽善で、敵になった

私がこうなってしまったのは、多分中学1年生の頃。6年間同じ校舎で過ごした小さな人間にとって、中学校は世界の全てであり、そこでトップに立つことが自分の人生に課せられた最大の課題だった。

もともと人前に立つことが好きな私は、学級委員に立候補し、見事役割を勝ち取った。世界で1番の女になったと本気で思っていた。その日から、私の一声でクラスの皆は整列し、私の号令で授業は始まり終わりを迎える。一人でいる子には声をかけ、陰口には加担しない。悪い事ではないが、同じく中学校が世界の全てである周りの子にとって、私の存在は偽善であり、人間の大好物である“共通の敵”とならざるを得なかった。

女の子は、陰口や嫉妬を共感し合うことで仲を深めるらしいが、私には難しいことだったので仕方ない。そうして、少しずつ周りから浮き始め、クラスの誰とも話さなくなった。決していじめられていた訳ではなく、自分と他との温度差に初めて気が付き、恥ずかしくなっただけだ。世界中で私だけが、皆と違う目標に突っ走っていただけだった。

学校のことを話さなくなった私を両親は心配したが、これは私が間違えたから起こったことで、恥ずかしいことなので言わなかった。

私は対・世界用の別人格を作り、今後の人生に期待しないことにした

そして、私は何を思ったか、対・世界用の別人格を作ることにした。自分の性格や人望や顔や成績や、とにかく今後の人生全てに期待しないことが絶対条件。間違っているのは私なので、当然の結果。

以降、出来ない事があっても私だから仕方ない。話しかけてくれても友達にはならない。嫌なことを嫌と言わない、笑顔で応えるという生活を続けた。出しゃばらず、当たり障りなくなりたかった。

次第に“期待しない”は、“頑張らない”になった。定期試験も部活動も交友関係も、頑張ったらこうなるという明確な何かに欠けた。良い高校へ行けたら、良い企業へ就いたら、良い人と結婚したら、それが何になるのか分からなかった。

一般的に、多感な時期に陥るそれは、20歳になる今も続いている。結局友達はできず、部活に精は出ず、受験シーズンで周りがピリピリしても焦りは出ず、なんとなく行けるところへ進学した。

普通の高校で、普通に学び、恋愛も普通にした。あんなに求めていた当たり障りないがここにきてようやく実現したのに、私の精神は削られていくばかりだった。頑張ってないのに、進学も友達も恋人もできた。

高校では初めて運動部に入ってみたものの、戦力になれないプレッシャーで進級と同時に辞めた。友達と話していても、面白い話の一つも浮かばない。告白されて付き合っても、私の何が良くて隣を歩いているのか分からない。何も成し得ていない自分が、周りと同じ土俵でのうのうと生きているのが怖い。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

生きる為に「自分で作ったルール」が、今一番自分を追い詰めている

そんな精神状態で高校3年生になり、就職か進学かの選択を迫られた。本当は看護の専門学校へ行きたかったが、私を雇ってくれる所があるか分からないし、高校の斡旋ならまず間違いなくどこかしらには就けるので就職にした。

その面接練習で冒頭の会話に至る。生きる為に自分で作った“期待しない”というルールが、今一番自分を追い詰めている。頑張らないを頑張ってきた学生時代は、全て否定されるin職員室。私はまた、周りから浮いていた。

正解もゴールもないくせに、間違いだけは指摘してくる世界で生きることはすごく難しい。私は自分のルールを破って、これから社会のルールに飲まれて行くのだろうかと思った。