物事は、一生懸命取り組む。
遅刻をすることは、ほぼ無く全て出席する。
課題は、期日までに提出する。
「しっかりしていて真面目」という、私を追い詰めたレッテル
大学生の私にとって、これは全て苦ではない。
中学、高校の時も校則を守り、制服も規則通りに着ていた。
ただ、いつの間にかこんなことを言われるようになった。
「〇〇ちゃんは、しっかりしてるよね」
「〇〇は、真面目だからね~」
「そんなことないよ~」と、とりあえず返しておく。
私は別にしっかりもしてないし、真面目でもない。授業中に眠たくなるし、学校もギリギリに到着することもよくある。課題も期日のギリギリまでよく残してしまい、焦ることも多い。
そんなに要領も良いわけではなく、寧ろ悪い方。定期試験勉強も人より時間をかけてやらないと周りに追いつかなかった。
でも、そう言われることで「しっかりしなければ」「真面目でいなければ」と頭の中の何処かでは思っていたのかもしれない。
貼られた「レッテル」によって、自身を縛ってしまうことへの恐ろしさ
先月、来年受ける国家試験の学内模試をした。結果は今までで一番悪かったが、切り替えて次の模試に向けて頑張っていた。
そんな中、先日から集中講義が始まったのだが、その席順は先月の模試の成績順となっていた。私の成績は、半分より下で、席も前の方だった。私自身、もっと頑張らなければとは思ったが、自分を賢いなんて一度も思ったことはなかったので驚くことはなかった。
でも、私の友人たちは私の座席を聞いた後、申し訳なさそうな顔をしてきた。
賢いアピールなんてしたこともない。成績優秀者に選ばれたこともない。周りがつけた「真面目」「しっかりしている」のレッテルから頭もいいと思われていたみたいだ。
「真面目」「しっかりしている」この2つだけで、どうして「賢い」というイメージまでつけられないといけないのか、そしてそのイメージに沿わなかった時、悪いことしてないのに、申し訳ない気持ちを持たせてしまったのか。
思い返せばこんなこともあった。
小学生の頃から塾に通わせてもらっていたこともあり、一応進学校の高校に通っていた私は、大学受験が終わった後アルバイトを始めた。
元々、新しいことへの飲み込みが悪く、初めてのアルバイトで仕事に慣れるのも遅かった私にバイトの先輩が「〇〇高校通ってるからできるでしょ?」と言ってきた。
その期待に応えることはできず、それ以外にも色々あって辛くなりすぐに辞めてしまった。
先月の模試の場合は、勉強不足だった私が悪いのだが、貼られたレッテルによって人のイメージがつくことと、レッテルによって自身を縛ってしまうことへの恐ろしさを感じた。
友人に申し訳なさそうな顔をされた時、こちらが申し訳なくなったが「賢いのレッテルを貼って欲しい」なんて言っていない。また、こんな時でもレッテルを気にしなければならないのかとも思った。
レッテルに縛られることなく、自分らしくありのままで生きていきたい
「性格」「印象」「性別」「学歴」「身長や体格」などなど様々なことから、私たちは勝手にイメージをつけて勝手にレッテルを貼りすぎている気がする。そして、そのレッテルによって期待や落胆をしすぎているのではないだろうか。
それと同時に、私自身も今回のことで、人に「貼ってください」と言われてないレッテルを貼っていたことに気づいた。
自分についているレッテルに縛られることなく、自分らしくありのままで生きていきたい。
そして、私自身も人にレッテルを貼らずにその人のどんな面も受け入れることのできる人間になることが私の目標となった。